にっぽんの旅 九州 長崎 諫早

[旅の日記]

開拓事業が町を二分した諫早 

 諫早、この名を聞いて真っ先に思い浮かべるのが、「諫早湾干拓事業」の闘争です。
そんな諫早を少しだけ、散策してみました。

 そもそも「諫早湾干拓事業」とは、有明海の諫早湾を埋め立て、広大な干拓地を得るとともに農地の冠水による塩害被害を防ごうというものです。
1952年に発案され1989年に着工した潮受堤防は、全長7kmにも及びます。
そして1997年に水門が閉じられると、赤潮が発生し漁業ができなくなる事態が発生します。
そもそも着工前に莫大な漁業補償金が支払われ漁業権を放棄した漁協とそれ以外とで、利害の違いもあり賛成派と反対派が裁判で激しく争う事態に陥りました。
これに政治が起こした無駄な公共事業との批判も相まって、いったん閉めた水門を開ける決定がなされます。
新聞で、ニュースで騒がれていましたので、記憶にあるのです。

 そんな諫早水門を、島原から諫早に向かう電車の中から眺めながら、JRと島原鉄道が交差する諫早駅にたどり着いたのです。
さてここからは、本明川に沿って「諫早城址」に向かって歩いて行きます。

 本明川に架かる「四面橋」たもとに、踊る姿をした銅像が立っています。
これは「のんのこ諫早まつり」を表したもので、9月に行われる諫早の祭りです。
「のんのこ諫早まつり」の由来は、江戸時代の参勤交代にまでさかのぼります。
箱根の関所を通過する際、関役人が居眠りをしていたことから声が掛からず、本来は槍など前に傾けて通るところを立てたまま通り過ぎようとしました。
ようやくこれに気付いた関役人は引き返して通りなおすよう怒鳴りますが、足軽頭の小柳与右衛門が関役人に対し、職務怠慢を非難しまず腹を切るよう返します。
関役人は反論もできず、行列はそのまま関所を通り過ぎていきます。
関所を越えたところで一行は、我藩だけが立て道具のまま通ったことに喚起し酒盃をあげます。
この時出た唄が、今の「のんのこ節」となったと伝えられています。

 「四面橋」からほど近いところに「諫早神社」はあります。
ここは、728年に聖武天皇の勅願により行基が石祠を祀ったのが始まりといわれています。
元は「四面宮」と呼ばれていたものを、明治時代の神仏判然令から並祀していた「荘厳寺」を分離し、社名を「諫早神社」と改称しています。
境内には大きなクスの樹があり、この神社の御神木となっています。
また訪れたときの諫早市長は、「諫早神社」の神主でもあるのです。

 神社を出て、その前の本明川を眺めると、川の中に飛び石が並んでいます。
この辺りは両岸を行き来するためのもので、穏やかで浅い川だということが分ります。

 その先には「諫早城址」に登る鳥居があり、長い登り路が続きます。
息を切らしながら登りつめると、山頂には石鳥居がありその先は広場になっています。
そして傍らには、ここにもおおきなクスの樹がそびえ立っているのです。

 この地は南北朝時代に激しい領主交代が繰り返されましたが、1587年に龍造寺家晴が西郷氏を下し新領主となります。
第2代の直孝は「伊佐早」から「諫早」に地名を改め、佐賀藩の諫早領となります。
長崎街道の宿場や番所があるとともに多良街道、島原街道の分岐点にも位置することから、交通の要衝としての重要な役割を果たしてきたのです。

 帰りは「高城神社」方向に山を下りていきます。
途中、高校のブラスバンド部が練習をしています。
ここなら人も来ずに音を出しても大丈夫と思ったのでしょう。

 「高城神社」は諫早家初代の龍造寺家晴が祭神で、1882年に創建された比較的新しい神社です。
本殿の屋根瓦は亀の形をしたもので、珍しい形をした鬼瓦です。

 そして隣接する諫早公園には、眼鏡橋もあります。
1839年に、それまで大きな橋がなかった本明川に架けた石造りのアーチ橋です。
諫早水害の後に、この公園に移設され今に残されています。

 これといった派手さはない町ですが、長崎県では長崎、佐世保に次いで第3の人口を誇る町です。
今は静かな町も「のんのこ諫早まつり」ではさぞ賑わうことでしょう。

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