にっぽんの旅 九州 長崎 壱岐

[旅の日記]

歴史と大自然の壱岐(南部編) 

 長崎県の離島 壱岐にやってきました。
本日は壱岐の歴史に触れてみようと思います。

 フェーリーで壱岐の芦辺港に着いたのは昼前です。
芦辺港の前のロータリーには、「弘安の役」で元軍を迎え撃った「少弐資時」の像があります。
教科書でも出てくる元寇で、1274年の「文永の役」と1281年の「弘安の役」と2回にわたって大陸から攻めてきた蒙古襲来です。
朝鮮半島の高麗を服属させたフビライ・ハン率いる蒙古軍が日本に対しても服従を迫り攻めるものの、いずれも「神風」なる大暴風雨が吹き荒れ日本に勝利をもたらした事件です。
日本に上陸する前に立ち寄り残虐な行為を繰り返したのが、この壱岐だったのです。

 ここから郷ノ浦まで移動するのですが、バスが来るまで時間がありましたので港の近くの丘に登ってみます。
丘の上からは今まで乗ってきたフェリーがまだ停泊しているのが見えます。
車の乗降が終わり、出船に備えて船首の扉を閉めようとするまさにその瞬間です。
芦辺港を見下ろしながら、時間が経つのを待ちます。

 バスは集落を回りながら郷ノ浦まで走ります。
30分ほど乗ったところで郷ノ浦本町に着きます。
そういえばこの近くに神社があるはずです。
早速「塞神社」に寄ってみます。
天の石屋戸の裸踊りで知られる女神天宇受売命(あめのうずめのみこと)は男神猿田毘(さるたび)古神と結ばれ、猿女君(さるめのきみ)として一体神となります。
猿女君を祀ったのが、この神社です。
安産の神様として進行されており、境内には男性の大切なモノが飾られています。

 郷ノ浦でレンタカーを借りて、ここからは車で移動します。
ちょうど時間も昼時となりましたので、昼食を取ることにします。
「ひきとおし」は島のふるまい料理で、鶏ガラ出汁に鶏肉とゴボウや白菜などの野菜が入っています。
それにそうめんが加わり、体の芯から温まる鍋料理です。

 さて腹も満たし車で最初に向かったのは「鬼の足跡」と呼ばれるところです。
車から降り歩いていくと、一面が芝で覆われた場所に出ます。
なだらかな傾斜で穏やかなところかと思いきや、さらに進むと東シナ海の荒々しい海が見えてきます。
玄武岩が波の浸食によって削られてできた大穴に、鬼伝説が残っています。
鬼が鯨を捕る時に足を踏み入れてできたのが、この大穴だそうです。
そしてもう片足は「辰の島」にある「蛇ヶ谷」といわれています。

 次に訪れたのは、島の東側に位置する「原の辻一支国王都復元公園」です。
壱岐は「魏志倭人伝」に「一支國」として記されています。
その王都が、ここ「原の辻」であったと考えられています。
この遺跡からは朝鮮半島や中国大陸のたくさんの品々が見つかっており、既に弥生時代に外国との交易や交流の中継地として栄えていたことが判ります。
「原の辻」は丘陵の周囲を何重もの溝で囲んだ環濠集落で、中心には一支國の王が住み海外からの使節団を招いた交流の場であったと考えられています。

 広大な公園に入ってまず目につくのが、物見櫓です。
縦横2間の広さで9本の柱で組まれています。
ここから鐇鉾川そして今発掘が進んでいる船着き場の人の出入りを監視する場所です。
周りには番小屋と呼ばれる見張りの兵士が待機する小屋も並んでいます。
周りが木で囲まれ祭りや儀式を行う広場もあります。
入り口となる2本の柱から中に入ると、そこには祭礼の器を保管する倉、食材を保管する倉などが並んでいます。
王の住まい、長老の家もあります。
その他にも使節団の宿泊のための家も準備されていました。

 「原の辻一支国王都復元公園」には、「原の辻ガイダンス」という建物も併設されています。
ここでは遺跡の発掘調査の様子や調査結果の室内展示が行われています。

 それではもう少し脚を伸ばし、「一支国博物館」に向かいます。
山の中に突如現れる超近代的な建物が「一支国博物館」です。
外見とは違い内では壱岐の古代からの歴史が語られています。
まずはシアターが上映されており、大陸や朝鮮半島と日本本土を結ぶ架け橋として重要な役割を果たしていた「一支国」が紹介されます。
その先には、先ほど見てきた「原の辻遺跡」のジオラマが再現されています。
壱岐には大きな3つの環濠集落があったことが判ります。
また古墳も多く残っており、なんとその数は270基にも及びます。
そうした壱岐の歴史が、博物館では判りやすく説明、展示が行われています。

 近代的な建物には展望塔も備わっています。
せっかくですから、展望塔にも登ってみます。
大きな「原の辻遺跡」ですが、これまた広い田んぼの中にポツンと在るのが判ります。

 次に車が向かったのは、印通寺港近くにある「松永安左エ門記念館」です。
実はこの時まで「松永安左エ門」なる人物を知らなかったのですが、記念館で教えてもらいました。
長崎県壱岐島出身の松永亀之助は、父の名を襲名し3代目安左エ門と称するようになります。
「学問ノススメ」に共感し1889年に東京へ出て慶應義塾に入学するものの、コレラを患って一度は中退します。
1896年に再び慶應義塾に通い出しますが、学問に興味が湧かなくなったこと中退してしまいます。
その後日本銀行に入行するものの日銀幹部ストライキ事件に嫌気がさし、1年で退社します。
1909年に福博電気軌道の設立に関わり、このころから電気の将来性を見越して電力業界に関わるようになります。
その後いくつかの電力会社を合併し九州電灯鉄道、さらには関西電気と合併して東邦電力を設立します。
東邦電力は九州、近畿、中部を基盤にしていましたが、東京への進出のために東京電力を設立し、当時東京で勢力をもっていた東京電燈を合併して事実上の電力王となります。
第2次世界大戦が起こると電力が重要な戦力となりましたが、安左エ門は戦争には加勢せず電力業界からも引退を表明します。
やがて戦争も終わり電力会社の再編を画策する段になると、戦争に加わらなかった安左エ門に依頼が来ます。
現在の全国9電力体制はこの時に決められたものです。
電力だけに留まらず1956年には私設のシンクタンクである「産業計画会議」を発足し、経済分野での国家政策への提言を行っています。
その他にも安左エ門が加わった事業は東名高速道路・名神高速道路の計画や、国鉄民営化、沼田ダム・黒部ダム計画、北海道開発などがあり、その多くが実現され先を見越した洞察力に感心させられます。
そんな安左エ門も1971年には肺真菌症で慶應義塾大学病院にて死去し、日本の発展に寄与した95歳の生涯を閉じたのでした。
記念館の敷地内には、安左エ門が電力王となるに至った資料や設立に関与した福博電気軌道の車両、そして安左エ門の生家が残されています。

 ここからは北上して島の中央まで車を進めます。
東の海岸線に沿って車は走り、着いたのは「小島神社」です。
干潮時の前後の数時間に限って、海から参道が現れて歩いて参拝することができるパワースポットです。
潮の干満時刻を調べていっただけあって、参道がはっきりと浮き出ています。
石がころがる海の上の参道を歩き、島の鳥居まで行ってみます。
他にも2組の参拝者に会いましたが、離島の壱岐だけあって混むこともなくゆっくり観光ができます。

 そこから東に突き出た八幡半島方向を目指します。
「ほらぼらけ地蔵」は「海女の里」として知られる八幡浦の海中に祀られている地蔵さんです。
「小島神社」の参道出現に合わせて干潮時に来たので、地蔵さんが海水に浸かっていることはありませんでした。
実は翌日にももう1度今度は満潮時間帯を狙ってやってきたのですが、状況は同じでどうやらこの時期は潮位が足りないようです。
6体の地蔵さんには手作りの赤い毛糸の帽子が被されており、地元に愛されていることが判ります。

 その先の半島の先端まで行きましょう。
「左京鼻」はおよそ1km続く断崖絶壁で、壱岐を代表する景勝地のひとつです。
海中から突き出る柱のような奇岩は「観音柱」と呼ばれ、島が流されてしまわないように造った8本の柱、いわゆる「八本柱」のひとつと云われています。
玄武岩の柱状節理で、自然が作り出した造形美です。
江戸時代にかんばつが続いたことがありました。
その時に陰陽師の後藤左京らがここで雨乞いを行うと大雨が降り出しだし、村人たちが救われたということから「左京鼻」の名がついています。

 さて時間は18時前、そろそろ宿に行き風呂を浴びて夕食にしたいものです。
今晩の宿泊はここから西に進んだ島の西海岸。
といっても小さな島ですので、20分もあれば着きそうです。
今回は「湯元温泉」にある国民宿舎を予約しています。

 「湯元温泉」は、神功皇后が壱岐に立ち寄られた際に、湯ノ本の路傍に湧き出る温泉を産湯に使われ応神天皇が誕生したという伝説が残されており、子宝の湯として知られています。
赤褐色の温泉で、末梢循環障害、自律神経不安定症、筋肉痛、疲労回復などに効果があるとされています。
湯にゆっかりと浸かり、本日の運転の疲れを取ります。

     

 夕食は壱岐の牛肉と新鮮な魚が食卓に並びます。
風呂に入り乾いた喉にビールが浸みます。
陶板焼きの肉は、この地の壱岐牛です。
魚は刺身でいただき、その次には煮付けが出てきます。
ひらまさを煮付けでいただいたのは、今回が初めてでした。
そして最後には、壱岐で食べられる「うにめし」です。
壱岐の海で採れた新鮮なウニを、米に混ぜて炊いたものです。
生でも美味しいウニを、なんとも贅沢な食べ方なのでしょうか。
上機嫌でこの日は過ぎていったのでした。

 翌日は朝から近くの黒崎半島の先端にある「猿岩」に向かいます。
まさに猿が横を向いている姿です。
「左京鼻」のところに書いた「八本柱」のひとつが、この「猿岩」です。
その高さは45mにもなる巨大な岩の柱です。
近くの売店は「猿岩」にちなんで「お猿のかご屋」と呼ばれ、海産物や土産物が並んでいます。

 そして「猿岩」から歩いて行ける場所に、「黒崎砲台跡」があります。
岩をくりぬいたトンネルが、口径41p、長さ18m、弾丸の重さ1トンの大砲を備えていた土台部分です。
戦艦土佐あるいは赤城の主砲が据えられました。
この東洋一と言われた巨大な砲台は1933年に完成し、対馬海峡を通過する艦船を攻撃するために設置されましたが、1度だけ試射が行われたのみで幸い実戦で使われることなく終戦後に解体されました。
「お猿のかご屋」の横の道を登っていくと、砲台を上部から見ることができます。
パッカリ空いた大きな穴は巨大な砲台の抜け殻、横では平和のシンボルである桜が満開になっていました。

 さてそろそろ帰りの船の便が心配になってきました。
1便逃すと翌日の便になりかねないのが離島です。
早めに郷ノ浦まで車を進め、レンタカーの返却と乗船券の引き渡しを受けて、余った時間で郷ノ浦の町を散策します。
壱岐には数々の鬼伝説がありますが、ここにも鬼の像がありました。
島を荒らし島民を苦しめていた鬼に、豊後国の若武者百合若大臣が鬼退治にやって来ました。
次々と鬼を切りつけ最後に残った鬼の大将である「悪毒王」との対決になりました。
激戦の末、百合若大臣は刀で「悪毒王」の首を斬り落とします。
鬼の首は空中に舞い上がり、百合若大臣の兜に噛み付いたがそのまま、死んでしまいます。
その勇士の話をもとに鬼の顔を描いたものが、「鬼凧」として壱岐の名産品になっています。

 郷ノ浦港からは、わずか70分で博多に着くジョットフォイルに乗ります。
船体が海面から浮き上がり高速走行が可能です。
だたし港に入ってくる時は船底が水没し、普通の船と見分けがつきません。
時は3月の最終週、転勤で島を離れる先生、本土の学校に進学する生徒で、港は島民が一体となった見送りが繰り広げられます。
横断幕が張られ太鼓が叩かれる、島ならではの光景を目にすることができたのでした。

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