にっぽんの旅 九州 長崎 平戸

[旅の日記]

南蛮貿易で栄えた平戸 

 本日は長崎の最西端の平戸に来ています。
松浦鉄道で平戸に向かう途中、発電所前駅からは「玄海原子力発電所」を見ることができます。
第2次大戦中に原子力で痛い目に遭ったのに何故、そう思うのは私だけでしょうか。
その他には美しい海の景色を見ながら、電車は平戸に着きました。

 松浦鉄道の「たびら平戸口駅」には、「日本最西端の駅」を示す碑が建っています。
また駅には巨大なカマキリのオブジェがあります。
これは「たびら昆虫自然公園」の宣伝のためのものです。
もうひとつ「鉄道博物館」もあります。
松浦鉄道が国鉄松浦線時代の駅の看板などが展示されています。
駅で元祖海鮮ちゃんぽんが食べれると聞いてきたのですが、あいにくこの日は店が休みだったようです。
せっかく期待していたのに残念です。

 平戸を観て回るには観光地が点在していますので、まずはレンタカーを手に入れます。
ところが平戸には意外とレンタカー会社がなく、やっと見つけて予約したところは「たびら平戸口駅」からかなり外れた場所です。
20分くらいかかるところで、そこに行くためにレンタカーを借りたいような場所にあります。
遠いとはいえ他店の半額ぐらいといった安く借りることができたので、不満はありません。

 それではここからは真っ赤な平戸大橋を渡って、車は平戸市街に入っていきます。
激安のレンタカーですが、安いだけあってカーナビが付いていません。
普段使っているカーナビがなくなった時の不便さが、ひしひしと感じられます。
この辺りにはいくつかの名所が集まっていますので、平戸港で駐車し歩いて回ることにします。

 平戸の市街地は、昔の街並みを残した景観が続きます。
土産物、海産物などの店が、軒を並べています。
平戸は平戸藩松浦氏の城下町で、中国やポルトガル、オランダといった海外といち早く貿易を行っていました。
鎖国前のことです。
鉄砲をはじめとする海外の見たことのない品物を入手する一方、西洋からキリスト教が入って来たのもこの場所です。
それではその証を見に行きましょう。

 「平戸オランダ商館」は、オランダとの貿易が行われていた平戸ならではの場所です。
鎖国の中で長崎の出島で海外との貿易が行われていましたが、出島が作られる前は何を隠そうこの平戸が貿易港だったのです。
その証がこの「平戸オランダ商館」です。
実はイギリスも日本との貿易を試みましたが、オランダとの貿易に負けて撤退した経緯があります。
鎖国が実施されるまでは、この平戸が海外貿易で大きく栄えたのでした。

 「平戸オランダ商館」の周りにはオランダ貿易商の来航にちなんだ施設が残されています。
「オランダ埠頭」は 商館の船着場として利用されていました。
オランダ商館時代には、アーチ型の門が建っていたということです。

 「オランダ井戸」もそのひとつです。
大小2つの井戸があり、中では互いにつながっています。
大きな井戸は屋外からの水汲み用、小さな井戸は商館の屋内から調理等に用いたものだと言われています。

 その脇に「オランダ塀坂」があります。
階段が続いていますので、上ってみます。
ホテルの周囲に沿うように、急な坂が続いています。
坂の上の人気のないところには、「フランシスコ・ザビエル記念碑」があります。
ザビエルは1550年に鹿児島を訪れた際に平戸にも来ています。
領主 松浦隆信の許しを得て都合3回の平戸訪問を行い、平戸にキリスト教を広めたことで有名です。
ザビエルの来朝400年を記念して崎方公園の高台に白の大理石で十字架を模った記念碑が建てられました。
碑の中央に刻まれたザビエルの胸像の視線は、遠くエルサレムを望んでいると言われています。

 それでは次に「松浦史料博物館」を訪れてみましょう。
城のような石垣が囲まれた石段を上ったところに、博物館はあります。
平戸を治めた松浦藩の藩主の屋敷です。
博物館となっている建物は1893年に松浦家の邸宅として建てられたものです。
中には18世紀の出島の様子を鳥瞰的に描いた長崎日蘭貿易絵巻や、17世紀ごろ長崎に来航した異国船を描いた異国船絵巻、そして島原の乱の陣営図を描いた原城攻囲陣営並城中図など、その時代時代を描写したものが保管されています。

 それではここで港に戻りましょう。
そこには「ポルトガル船入港碑」があり、南蛮船の模型が飾られています。
ポルトガル船がはじめて平戸に入港したのは1550年のことですが、問題が起こらなかった訳でもありません。
1561年にはポルトガル人との間にある事件が起きます。
村民とポルトガル船員との間に、言葉が通じず商売のことで論争が始まります。
やがて喧嘩となり十数名の死傷者を出す事件まで発展しました。
いわゆる「宮の前事件」です。
しかし日本にとって西洋の文化は、どれをとっても新しいことばかりでした。

 その場所から鏡川に架かる石橋が見えます。
「幸橋」で別名を「オランダ橋」とも呼ばれています。
町の中心を鏡川が流れていますが城と城下町との行き来ができるように、第29代松浦鎮信が木橋を架けます。
その時呼ばれていた名前が「幸橋」です。
1702年には第30代の松浦棟が、これを石橋に改架しました。
これが今目にしている橋です。
オランダ商館の石造建築に携わった石工から伝授されてきた技法が用いられたとことから、「オランダ橋」とも言われています。

 ここからは車で乗り、高台に上がっていきます。
そこにあるのは「平戸ザビエル記念教会」です。
の尖鋭な屋根と十字架が目印の黄緑色の綺麗な教会です。
1913年に「カトリック平戸教会」の仮聖堂が建てられますが、その後の1931年に今の地に教会が建設されました。
1550年のザビエル平戸来訪を記念して、1971年に教会脇に「ザビエル記念像」が建立されました。

 平戸湾をはさんでもうひとつの高台には、「平戸城」があります。
残念ながらあいにくの改修工事中で、城に近づくこともできません。
「平戸護国神社」辺りからは、先に「平戸城」を見ることができます。
ただし工事用のシートで覆われ、工事用の足場の隙間からかろうじて城の形が判別できるくらいです。
「平戸城」は安土桃山時代の末期に松浦鎮信によって築かれます。
しかし完成も間近の1613年に自ら火を放ち城を破却します。
松浦家が豊臣氏と親交が厚かったことから江戸幕府の嫌疑から逃れるためとも言われていますが、真相は謎のままです。
4代藩主松浦重信は幕府に築城を願い出て、これが許可されます。
築城が許されるのは異例のことで、東シナ海警備の必要性と松浦家が徳川家との姻戚関係によるものと言われています。

 それではその先の「亀岡神社」まで行ってみます。
松浦家の歴代藩主を祀った神社で、1631年に松浦棟が祖霊4柱を平戸城内の霊椿山に祀ったのが始まりです。
社殿の修理は藩費をもって行われてきました。
秋の大祭は「平戸くんち」がここで行われます。

 さてその日は宿に入ります。
今回はホテルではなく民宿旅館を予約しました。
網元の宿と称されるここは、名の示す通り新鮮な魚がこれでもかというくらい出てきます。
目の前に並んだお膳ですが、食べ進めると次々に新たな魚料理が運ばれてきます。
しかも手ごろな料金で、大満足の料理だったのです。
窓の下には玄界灘が広がり、夜ともなると暗黒の世界に海から吹き寄せる強風が窓ガラスを震えさせます。
どこか懐かしい体験ができたのでした。

   
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