にっぽんの旅 九州 長崎 端島

[旅の日記]

歴史に翻弄された端島(軍艦島) 

 本日の散策の舞台は、長崎県の「端島」です。
「端島」というより、通称の「軍艦島」という方が馴染みがあるのではないでしょうか。

 「軍艦島」には小型船に乗り、長崎から1時間かけて行きます。
島を巡るツアーを利用することにします。
船に乗り込んだのは出港20分前なのに、既に席はほどんど詰まっています。
予約をしていてよかったです。
よく見えるように、できるだけ端の席を選んで座ります。

 やがて船は静かに出港し、長崎湾内の「三菱重工業長崎造船所」を横目で見て進みます。
ここは日本初の艦船修理工場「長崎鎔鉄所」として、1857年に誕生しました。
明治に入ると三菱に払い下げられ、それ以後は民営の造船所として艦船を建造し続けています。
本日も艦船がドッグ入りしています。

 そして少し離れたところには、緑色のクレーンが建っています。
これは1909年にイギリスから導入した「ハンマーヘッドクレーン」で、明治の日本の発達に寄与してきたもので、世界遺産にも認定されています。
それも現役のクレーンです。

 ふと振り返ると、「上ノ島」が見えます。
そしてそこには真っ白の「神ノ島教会」があります。
船から見ると教会の手前にマリア像が重なり、幻想的な光景です。
周囲わずか1kmほどの小さな「神ノ島」は、17世紀のキリシタン禁教令から逃れるためにキリシタンが多数住み着いた場所です。
ここで潜伏して、キリスト教の信仰を守ってきました。
1873年に禁教令が撤廃されると、1876年には念願だった仮聖堂が建立されます。
そして1881年にラゲ神父によって、木造の教会が建てられました。
今も残る教会堂は、1897年にデュラン神父が私財を投じて完成させた煉瓦造りのものが原型となっています。

 やがて見えてくる伊王島も、カトリック教徒が多いことでも知られているところです。
伊王島と沖ノ島の2つの島を合わせた総称として、「伊王島」と呼ばれています。
歴史のある教会も数多く存在し、「聖ミカエル天主堂」はゴシック様式の白亜の教会です。
1892年にマルマン神父により煉瓦造りの聖堂と司祭館が建てられました。
しかし1927年に台風で倒壊したため、今見ることができるのは1931年に再建された鉄筋コンクリート造りの聖堂です。
屋根は垂直に近い傾斜をもち、これが日本の建物の中では新鮮に見えます。

 そのあとは海の中を進みます。
途中には石炭で栄えた「高島」が姿を現しますが、それ以外はひたすら船は進みます。

 長崎港から1時間近く建った時に、無人島の「中ノ島」の姿が現れます。
そしてその先には目指す「軍艦島」があるのです。
「中ノ島」は、「軍艦島」同様に炭鉱の島でした。
1879年に炭鉱開発が始まるものの坑道での出水に苦しみ、1893年には閉山してしまいます。
その後は緑のなかった「軍艦島」の島民のための緑化公園が造成され、さらには人口が増えた「軍艦島」の火葬場と墓地がここ「中ノ島」に設置されます。

 そんな「中ノ島」を横目に、船上の関心は「軍艦島」です。
かつての地底炭鉱である「軍艦島」は、島が護岸堤防で覆われておりその上に一大都市が形成されています。
日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼ばれるようになりました。
1945年にはアメリカの潜水艦「ティランテ」による魚雷攻撃を受けますが、軍艦島を本物の軍艦と間違った事件も起きています。
ただし我々がこの島に滞在できるのは、わずか30分に制限されています。
老朽化は進むこの島に、世界遺産認定で観光客が増えることに対する島を守るための処置です。
島の中はガイドが同行し、決められた場所だけに上陸が許されています。
元住民のガイドの話を聞きながら、当時の様子を思い浮かべます。

 今でこそ南北に約480m、東西に約160mの島ですが、当初は小さな瀬であったところを石炭採掘ができると判ると、埋め立てによる3倍の大きさに拡張されました。
石炭採掘のために、島には日本で最初の鉄筋コンクリート造の30号棟の集合住宅も建設されました。
1916年のことですから、先進の設備だったのです。
炭鉱施設のほか、住宅、学校、店舗、病院、寺院はもとより、映画館、理髪店・美容院、パチンコ屋、雀荘、スナックまでが整備され、最終的には72棟の建物が並んでいます。
生活に必要なものはすべて備えた島だったのです。
最盛期の人口は5267人と、この狭い島に詰め込まれた人口密度は東京中心部の実に9倍以上という過密ぶりです。
1939年からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、さらには1943年には中国人捕虜の強制労働が開始されます。
こうして栄えた「軍艦島」ですが、採掘を終えて地上に出てくるまでの家族の不安は日々絶えないものでした。
また台風が襲来すると堤防はもとより構想の建物までが波にさらわれ、崩壊も伴っての自然との闘いは壮絶なものでした。

 ところが主要エネルギーが石炭から石油への移行に伴い、島も次第に衰退していきます。
そして1974年には、ついに閉山に追い込まれます。
島民は、強制退去を余儀なくされます。
はしごで船に乗り移るこの島では、生活道具を持ち出すこともできず住宅には家具や電化製品が残ったままで、巨大廃墟の島と化してしまいました。
閉山時の人口は、わずか約2000人だったのです。
そして今では観光客はあるものの、無人島になってしまいました。

 「軍艦島」を訪れて、石炭で栄えた巨大都市が一瞬にして消え去った歴史を見せつけられました。
いろんな意味で衝撃的な「軍艦島」だったのです。

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