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[旅の日記]

福江島の教会群 

 五島列島最大の都市、福江に来ています。
今回のテーマは潜伏キリシタンを巡る旅です。
本日は福江島の教会を巡ることにします。

 福江島と言っても大きな島で、電車はなくバスの便も悪いことから移動手段としてレンタカーを借ります。
島の東に位置する福江港から、まずは南西の「井持裏教会」を目指します。
整備された道なので、順調に車は進みます。
周りは田畑の向こうに山が見えるだけの道をしばらく走ってきましたが、やがて海が見えてきます。
そろそろ「井持裏教会」に近づいてきたようです。

 この地区は大村藩から迫害により逃げてきたキリシタンが潜伏した場所です。
五島藩は彼らを塩造りの竈場で働せます。
最初の教会は1897年に建立されたレンガ造の教会でしたが、台風で倒壊してしまいます。
そこで1988年にはコンクリート造の教会となります。
そう、今見ている教会です。
1891年にバチカンにこのルルドの洞窟が再現されたと聞き、五島列島司牧のペルー神父は五島にもルルドを作ることを決断します。
信徒に呼びかけて島内の奇岩、珍石を集めて、1899年についに日本で初めてのルルドを作りました。
この霊水を飲むと病が治ると言われ、日本全国の信者の聖地となっています。

 ここからは島の西側を海岸線に沿って、一気に北上します。
水が澄んでいて、運転していても海底まで透けているのが判ります。
思わず車を停めて、眺めるのでした。

 次なる目的地の「海津教会」は、カーナビでは到着したことになっていますが、どこにあるのか判りません。
通りから少し入り組んだところに、その教会はありました。
かつて外海地区から頓泊に入り、さらに竹山に移住した信徒の子孫が1924年に建立した教会です。
木造で壁を白く塗った建物です。
現在ある教会は老朽化のため1962年に大幅な改築がなされ、屋根の小さな尖塔もこの時に付け加えられたものです。
内部ではステンドグラスが暖かな赤や青、緑の光を放っています。

 島の北西の端に位置する「三井楽教会」は、これまでと勝手が違います。
道幅は狭くなり、いくつかの集落を通りすぎて道は半島の先まで続いています。
着いたところにある教会は、モダンなモザイク模様の壁画をもつ建物です。
室内は丸い電球が吊り下げられ、近代的な装飾がされています。
元々この地には大村藩の迫害から逃れてきた隠れキリシタンが、ひっそりと信仰を続けていました。
1880年にはゴシック様式の木造教会が完成しましたが、年月の経過とともに老朽化が進みまた白蟻の被害があったことから1971年に今の教会に建替えられました。
ステンドグラスを使って、キリストの誕生から復活までと五島のカトリックの歴史がうまく描かれています。

 今来た道を半島の根元まで戻り、東の方角に進みます。
「水ノ浦教会」を目指していたのですが、その手前で「牢屋」の看板が目に入ってきました。
キリシタンの迫害の歴史は本日のテーマですので、吸い寄せられるように看板の指す方向に車を方向転換させます。
先ずあったのが「楠原教会」です。
1797年の五島藩要請で、六方の浜から上陸した第1陣の外海キリシタンが移住しした場所です。
潜伏キリシタンとして仏教徒を装っていたときは穏やかな暮らしでしたが、久賀島から始まったキリシタン弾圧の「五島崩れ」は楠原にもおよび、敬虔な信者が次々と捕らえられました。
最初の「バテレン追放令」から230年の月日が経ち禁教の高札が下ろされた1912年に、ようやく現在のレンガ造の教会が建ちました。
しかしその後も教会の痛みは激しく、1968には大掛かりな改修工事が行われました。

 そのすぐそばに「楠原牢屋」はありました。
1868年に始まった「五島崩れ」で取り調べを受けたキリシタンが収容された場所です。
キリシタン組織の最高責任者である帳方の狩浦喜代助宅が仮牢として使われ、ここに一旦投獄された後に水ノ浦の牢に移されました。
狭い牢には多くの人が収容され、座る空間すら許されずに立ったまま圧死する者まで現れました。
この材木は水ノ浦修道院楠原分院の建設に使われ、残された材木で牢屋が縮小復元されて不幸な歴史を後世に伝えています。

 明治になって禁教令は解かれますが、それにはヨーロッパ各国の影響が色濃くありました。
岩倉具視が岩倉使節団を組みヨーロッパに視察に行きましたが、その交渉にあたって日本は相手にされませんでした。
各国ともキリストに対する過酷な扱いをする日本を、話の土壌にも上げなかったからです。
苦境に立たされた岩倉具視は新政府に働きかけて、宗教の自由を受け入れざる得なくなった経緯があったのです。
こうして日本の近代化が少しずつ始まっていきました。

 さて「水ノ浦教会」は道路脇にある白い建物です。
水ノ浦での信徒定着は、五島藩と大村藩の政策により1797年の外海(大野、牧野、神ノ浦)の5組の家族の移住から始まります。
1880年には最初の教会が建築されます。
1938年には老朽化に伴い、木造の新しい教会が誕生します。
ここも鉄川与助の設計施工のものです。
木造教会堂としては最大の規模を誇る白亜の美しい教会です。

 そして本日の最後の訪問場所であり、本日最も行きたかったところが「堂崎教会」です。
カーナビで道案内をすると、「水の上で道が不明だが案内を選択するか」といった謎のメッセージが表示されます。
地図データが古いのか、確かに画面には道らしき道が現れていません。
とはいえここには行きたいので、選択キーを押したのでした。
その理由はすぐに判りました。
道は車1台がやっと通れる幅しかなく、しかも海岸線を走る曲がりくねった道です。
右は崖、左は海で、対向車が来ないことを祈りながら運転します。
10kmほどそのような道が続き、急に整備された道に出ることができました。

 「堂崎教会」の前の入江には、大小さまざまな岩が転がっています。
波は静かで一見穏やかそうなこの地も、壮絶な過去があったのです。
教会の入口のところには十字架に張り付けられた青年の像が建っています。
1597年に6人の外国人宣教師と20人の日本人信徒が処刑された事件ですが、日本二十六聖人のひとりで五島出身の聖ヨハネ五島でした。
宗教弾圧のために大阪で捕らえられ長崎までの800kmの道のりを引かれ最後に十字架上で殉教した理不尽な彼の死に対して、像が掲げられています。

 この教会は禁教令が解かれた時、キリシタン復興の任を帯びてフランス人宣教師フレノー、マルマンの2名の神父が五島を訪れました。
布教に当たり1879年にマルマン神父は、五島における最初の天主堂を建てます。
当時はまだ木造の建物でした。
その後着任したペルー神父によって、1908年にンガ造りの教会堂が完成しました。
色ガラス窓を備えたコーモリ天井の教会で、資材の一部はイタリアから運ばれました。
今回訪れた中で唯一入場料を取るところで、その代わりキリシタン弾圧を展示する資料館として、聖ヨハネ五島の遺骨やド・ロ新婦の木版画などの貴重な資料が展示されています。

 ここから福江島までは、広い快適な道がつながっています。
どうやら先ほどは近いが困難な道をカーナビが選んでしまったようです。

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