にっぽんの旅 九州 長崎 下五島

[旅の日記]

離島の潜伏キリシタンと福江 

 五島列島はいくつもの島々から成ります。
本日は中通島、若松島、奈留島、久賀島から福江島へのツアーに参加し、普段は行くことのできない離島の教会を巡ります。

 出発は中通島の有川港です。
ここからワゴン車に乗り、若松島の若松港に進みます。
途中立ち寄った「中ノ浦教会」では、入江の向こうに教会が見えます。
まるで水辺に教会が浮いているかの風景です。
詳しくは中通島の旅行記に載せていますので、そちらをご覧ください。

 車は若松大橋を渡り若松港に着きます。
港では船が待ち構えています。
今日はこの「水上タクシー」を利用して、島を巡ります。

 最初に訪れたのは陸上からは見ることのできない「キリシタン洞窟」です。
若松島の里ノ浦のキリシタンは禁教令、とりわけ「五島崩れ」での迫害に追われて人目に付かない階上の岩場に身を潜めます。
面すれすれにわずかに口を開いた洞窟で、12人が4か月間の生活を始めます。
狭い洞窟内で12人が入ること自体が大変です。
ところが焚き火の煙を船に見つけられて通報されます。
逃げていた教徒は捕縛され、厳しい拷問を受けたということです。
この悲劇を偲んで後の1967年に十字架とキリスト像が建てられました。

 「水上タクシー」はそのまま奈留島の奈留港に向かいます。
奈留港でもワゴン車のタクシーが船の到着を待っています。
島の南側から北西の「江上教会堂」に移動します。
途中にメジャーリーガーに行った野茂英雄の親の家の前を通って教会に向かいます。
教会のある集落はキリシタンが集まるキリシタン集落です。
そしてここにある教会は、彼らキリシタンのための教会です。

 江上には1881年に西彼杵郡などから4家族が移住してき、ここで洗礼を受けました。
その後教徒の数も増え、集落はキビナゴの地引網漁で生計を立てます。
1918年には40〜50戸が漁で得た資金で、教会を設立します。
鉄川与助に依頼し、彼の設計施工で教会は完成します。
クリーム色の外壁に窓枠が水色の可愛い木造の建物です。
湧き水が多く湿気の多いこの地に合わせて、床は地面から浮かせた高床式建築の工夫がされています。
また意匠面では天井の通気口までが十字架を模った4枚の葉の形をしています。
また東側の屋根の所にも十字に切り欠いた板がはめられ、陽の光を受けて壁に十字架が映るようになっています。
教会内に入ると自然木をふんだんに使った柱が走っています、と思いきや木目は信徒が筆で描いたものだったのです。
また資金難で入れることができなかったステンドグラスの代わりに、窓には手書きの絵が描かれています。
教会に掛ける教徒の意気込みが漂う教会です。

 教会の前の海は、底まで透けて見えるほど水が澄んでいます。
細かく打ち寄せる波を見ると、キリシタンの迫害があったなんて信じられない平和な雰囲気です。
教会建設の資金を溜めるために、ここから船で漁に出たことでしょう。
そういえば松任谷由実が荒井由実時代に校歌がないことから曲を作って送った「瞳を閉じて」も、ここ奈留島の県立奈留高等学校です。
いまでは愛唱歌として歌われています。

 再び奈留港に戻り、次は久賀島に向かいます。
久賀島と言えば定期船は田ノ浦港に着きますが、そこは今回は海上タクシー。
行きたいところに横付けできます。
そして向かったのは「旧五輪教会」です。

 1881年建立の「旧浜脇教会」が1931年の建替えの時に、この五輪地区に移築されました。
これが「旧五輪教会」で、長崎県にある教会堂としては大浦天主堂に次ぐ古い木造教会です。
元々「旧浜脇教会」が古くなって持ってきたものですから、老朽化は免れません。
そして解体寸前まで行ったのですが、その建物の価値が見出され文化財として保存されることになりました。
その助言をしたのが、何を隠そう久賀島の仏教徒だったのです。
宗派を超えた暖かい話に心打たれながら、「旧五輪教会」の中に入って行きます。
普通は漆喰で固められる天井まで板張りの構造です。
先ほどの「江上教会堂」同様にこちら「旧五輪教会」も資金難で、窓はガラスには切り絵を貼り付け少しでも美しく見せてた跡が残っています。

 1985年には「旧五輪教会」に代わり、その横には新しい「五輪教会」が造られました。
ところでここで久賀島に関する情報を。
久賀島はかつては地区のほとんどが五輪(ごりん)姓だったということです。
そこで区別するために本家以外は五輪(いつわ)姓を名乗ったのです。
そう歌手の五輪真弓も、彼女のお父さんはこの久賀島の出身者なのです。
2013年のデビュー40周年の時には久賀島を訪れ、その様子がNHKで放映されました。

 久賀島を離れた「水上タクシー」は、終点の福江島の福江港に向かいます。
福江島は五島列島一の賑やかなところで、港のターミナルビルも立派なものです。
まずは腹を満たしましょう。
長崎と言えばやはりチャンポンでしょう。
港の近くの中華料理店でシンプルだけど出汁が美味しいのチャンポンを頂きます。
ちくわがたくさん入って、しゃきしゃきのモヤシとキャベツが嬉しかったです。

 ここからは歩いて福江の町を散策します。
まず訪れたのは「石田城址」です。
一般に「福江城」と記されることが多いです。
五島藩主第30代の五島盛成の時に黒船の来航に備えて造り出します。
城壁の三方を海に囲まれた日本唯一の海城です。
城は15年の歳月をかけ、1863年の福江藩最後の藩主五島盛徳が完成させています。
江戸幕府最後の城ですが、まもなく明治維新となり解体されてしまいます。

 まずは敷地地内にある「五島観光歴史資料館」を訪れます。
旧石器時代からの五島の歴史、五島藩の功績と資料、その間に起こった朝鮮の役、キリスト教伝来、異国船警備と波乱に満ちた五島藩の取った行動が記録として残っています。
もちろんキリシタンに対する弾圧とその中で信仰を守った潜伏キリシタンなどのキリシタン文化が紹介されています。
「五島観光歴史資料館」の隣には「五島市立図書館」もあり、城を模り周りの姿と合致しています。

 一方の「石田城址」ですが、表門には枡形の通路が城内まで延びています。
城としての門の形を残すのは、裏門である蹴出門です。
自然石を積み上げた石垣に石橋が架かり、蹴出門へと続いています。
本丸跡は県立五島高校、そして二の丸跡には先ほど見てきた「五島観光歴史資料館」「五島市立図書館」と「城山神社」が入っています。

 それではここから城の西側の「武家屋敷通り」に移ります。
ここには当時のたたずまいを残している通りが残っています。
石垣塀にはこぼれ石と称される丸い小石を積み重ね、外敵からの攻撃を防いでいます。
そこに武家屋敷特有の門が建っています。
そのひとつ「福江武家屋敷通りふるさと館」では、五島家庭園と同じ様式の林泉式庭園を観ることができます。
また建物内には武家屋敷通りを中心とした写真が展示されています。

 ここでホテルに入っても良い時間になったのですが、荷物だけをホテルに置いて近所の2ヶ所を観に行きます。
そううちのひとつが「六角井」です。
東シナ海で貿易商として活躍していた明国の王直は、1540年に福江にもやって来ます。
財政に苦しんでいた時の領主の宇久盛定は通商に前向きで、王直に住居を与えます。
その場所が唐人町で、王直たちの中国人に飲料水用に使った井戸が、この「六角井」だったのです。

 その先の福江川の川辺にあるのは「明人堂」です。
中国人が航海の安全を祈るために建てた廟堂です。
「明人堂」の傍には荷揚場が残されており、当時のこの辺りは交易の場として大いに栄えたのでした。
現在の「明人堂」は新たに建替えられたもので、石材等は中国から取り寄せて造りました。

 上五島から下五島へ潜伏キリシタンの足跡を追って移動し、下五島では五島藩の華やかりしころの歴史をみてきました。
最後に小腹がすいた時の美味しいものを紹介しましょう。
五島名物の「かんころ餅」です。
やせた土地の多い五島列島でも育つサツマイモを湯がいて天日で干します。
それを蒸してふやかし、同じく蒸した餅米に混ぜて突いたものです。
基本的には冬期の保存食でしたが、今ではこの地方の土産物となっています。

旅の写真館(1)