にっぽんの旅 九州 宮崎 飫肥

[旅の日記]

城下町 飫肥 

 飫肥に来ています。
宮崎からJR日南線で約1時間、訪れるにはちょうど良い距離にあるところです。

 飫肥駅から古い街並みまでは、1lkmほど歩いて行きます。
岩崎稲荷神社の鳥居を横目に、酒谷川に架かる稲荷下橋を渡り、飫肥の町まで入って行きます。
ここ飫肥には、かつての豪商の家が多く残されています。
特に飫肥杉を取り扱う材木商が多く出現し、財を成して豪邸を構えていました。
そんな家が残る飫肥の家々を訪ねてみます。

 町に入ると目についた建物があります。
飯田輝夫が1936年に飫肥藩重臣の守永屋敷内に建築した「飯田医院跡」です。
外壁には天然スレートが、魚のうろこのように全面に貼られている美しい建物です。
持ち主は医院の取り壊しを予定していたのですが、保存会が発足し飫肥市が買い上げるための募金活動を行っています。

 再び飫肥の「本町商人通り」を歩きます。
「旧高橋源次郎家」は、明治中期の近代的和風建造物です。
当時はやっと茅葺から瓦葺きへの転換が始まったばかりで、この時の瓦葺きの屋根は貴重で価値のある建設物です。
和室には、欄間を設け金粉を塗した襖もあり、豪華な造りになっています。
家主の高橋源次郎は銀行の頭取を歴任しており、多額納税者でもあったことから貴族院議員も務めた人物です。

 さらに進むと、「厚焼きたまご」の看板があがっている店を見付けます。
飫肥は「厚焼きたまご」が有名で、七輪で1時間以上をかけて焼き上げます。
その間は付きっきりで火の番をする必要があります。
無理言って焼いている様子を見せてもらうと、焼いている途中のたまごを見せてくれました。
下からだけでなく上にも炭を乗せて火をかけます。
「厚焼きたまご」を口に入れると、きめ細かい生地はまるでプリンを食べているようです。
たまご焼きではなくお菓子で、昔から祝い事に出されていたということです。

 その先には「商家資料館」があります。
白漆壁の土蔵造りの建物で、扉を入った土間からは天井までが見渡せる高さがある空間があります。
酒樽や米俵を運んだ大八車も、当時使っていたものが残されています。
奥の部屋では来月に迫ったひな祭りに備えて、立派な雛人形が飾られています。
そして部屋を区切る立派な欄間は、一見の価値があります。

 さてここからは、「本町商人通り」から直角に交わり「飫肥城」に向かう道を進みます。
まず最初に現れたのが、「旧山本猪平家」です。
1970年ごろに隣接する小村寿太郎生家が没落した際、豪商 山本猪平がその土地を買い取り建てたものです。
ここでもひな人形が飾られています。
ひな壇の横には鮮やかな晴れ着も添えられて、一層華やかさが栄えて見えます。
本宅と庭が奥に続き、昔のままのものが残っています。
木造の建屋に縁側の窓にはめられた手作りのガラスが合い、建物として趣のあるものになっています。

 そこから「飫肥城」方向に2筋進んだところに交わる路地の脇には小さな水路が引かれており、優雅に錦鯉が泳いでいます。
餌付けしているのか、近付いても逃げません。
なんとも、時間の止まる瞬間です。

 さてお腹も減ってきましたので、ここで食事としましょう。
入った店で頼んだのは、温かい蕎麦です。
薄味のだしに蕎麦が盛ってあります。
そしてその横の皿には、飫肥の郷土料理である「飫肥天」が添えられていました。
天ぷらかと何気なく口に入れたのですが、これがすごく柔らかいのです。
天ぷらというえば、歯で食いちぎり噛んでもくちゃくちゃ口の中に残る普通の練り物を予想していたのですが、「飫肥天」は歯ぐきの動きで簡単にちぎれ、自然と口に天ぷらの旨みが広がります。
魚のすり身の生臭さは、ひとかけらもありません。
どうやらこのフワッとした感触は豆腐によるもので、品の良い味付けには味噌や醤油、黒砂糖が使われているそうです。
これは良いものに巡り合うことができました。

 「飫肥城」までの道は、城近くになると上り坂になります。
正面に「大手門」が見えたところの左手が、「豫章館」です。
伊東家の家臣である伊東主水(もんど)の屋敷に、1869年に飫肥藩知事として飫肥第14代藩主伊東祐帰(すけより)が移り住みました。
「飫肥城」からこの屋敷への移動でした。
門から両側に植木が美しい石畳の道を進むと、その先に母屋の入り口があります。
母屋は南向きに建っており、そこには広大な庭園が広がっています。
「豫章館」の名は、邸内にあった樹齢数百年の大楠にちなんで名付けられたのです。
庭園から屋敷を眺めると、ここも多くのひな壇が外に向かって飾られていました。
母屋の裏手の苔むした情緒ある庭を進むと、町を見渡せる場所に茶室があるのも嬉しいですね。

 さていよいよ「飫肥城」を訪れましょう。
先ほど見た「大手門」を潜り、城の中に入って行きます。
「飫肥城」は宇佐八幡宮の神官の出身で日向の地にも勢力を伸ばしてきた土持氏が、南北朝時代に「飫肥院」を興隆したのが始まりです。
室町時代になると1456年に九州制覇を狙う薩摩の島津氏が、日向の伊東氏の勢力拡大に備えて志布志城主の新納忠続を飫肥城に入城させます。
1484年にはこれまでこの地を治めていた島津方の土持氏を裏切り、日向中北部を支配する伊東氏が攻め入ります。
ところが伊東祐国が戦死すると、島津氏は領土の割譲と称し実質的に飫肥を支配することになります。
その後の伊東氏は飫肥奪回に向けて断続的に攻撃を行い、1567年には再び伊東義祐が「飫肥城」を奪い返します。
しかし1572年の木崎原の戦いで伊東氏が没落すると、飫肥を含む日向国全土を島津氏が治めることになります。
飫肥を失った伊東祐兵は羽柴秀吉に仕えることになり、秀吉の九州征伐で勝利しその先導役を務めた伊藤氏には、大名として飫肥の地を与えられます。
それ以降、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまでは伊東氏が飫肥を治めることとなり、長く続いた島津と伊東の国盗り合戦にようやく終止符が打たれたのでした。

 「飫肥城」は天守を持たず、当時存在していた本丸もいまはありません。
周囲に9つの城を配した平城だった「飫肥城」ですが、そのひとつである「松尾の丸」が再現されています。
広く贅沢な部屋ではないにしても、小ぶりで綺麗な実用的な造りになっています。
特に目を引くの画湯殿で、こけら葺きの総桧づくりの蒸し風呂が部屋の襖を開くと突然現れるのです。
その他、「飫肥城歴史資料館」には、飫肥藩ゆかりの資料が保管されています。

 ここからは城の東側の「武家屋敷通り」沿いの「小村寿太郎生家」「旧伊東伝左衛門家」などを見て回ります。
どこも雛人形を飾り、見学者に見せてくれるのでした。

 「九州の小京都」と言われるだけあって、飫肥の町は日頃の目まぐるしい生活を忘れさせてくれます。
十分にリフレッシュができた飫肥散策でした。

   
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