にっぽんの旅 九州 熊本 山鹿

[旅の日記]

豊前街道の宿場町 山鹿 

 熊本県北部の山鹿が、本日の舞台です。
熊本駅から1時間かけてやってきました。

 北は福岡県、東は大分県に面し、菊池川が流れる盆地です。
12世紀の山鹿温泉の発見により、山鹿は温泉町と知られることになります。
その後は菊池氏によってこの地帯が支配されることになります。
加藤清正が山鹿を含む9郡の領主となった際には、清正の治世によりこの地も安定していきます。
そして16世紀に「豊前街道」の宿場町となった際に、町は大きく発展します。
熊本藩・人吉藩・薩摩藩が、参勤交代でこの町を利用することになります。
1923年には「鹿本鉄道(後の山鹿温泉鉄道)」が開通しますが、バス路線に客を食われて1960年には営業を停止し、1965年には正式に廃線となってしまいました。

 それでは、まずは町が繁栄した当時の娯楽の象徴ともなる「八千代座」を訪れてみます。
「八千代座」は1910年に建てられた芝居小屋で、今も残る国内で数少ない小屋のひとつです。
母屋造妻入造りの瓦葺の建物です。
山鹿の旦那衆が町の繁栄を図り、1株30円の株を募って建てたものです。
1911年のこけら落としにより、小屋としての営業が始まります。
しかしこれまで決して順調にきたわけではなく、1973年には経営不振で閉鎖してしまいます。
取り壊しの危機に陥ったちょうどその時、熊本大学工学部による学術調査が行われ「八千代座」の価値が見直されたのです。
市指定文化財に指定されたことから、小屋の修復が行われ奇跡的な復活を成し遂げました。

 それでは小屋の中を見学してみましょう。
靴を脱ぎ中に入ると、目の前には舞台への花道が続きます。
周りには升席が並び、その中の花道を歩いてみます。
左右には桟敷席を配し、こちらを向かって眺めています。
天井に目を移すと、そこには多くの商品や店の名前が並びます。
今でいうコマーシャルで、建設時の資金集めに使ったものです。
舞台に立つと、客席を見渡すことができます。
そして舞台中央は床が丸く切りかかれており、廻り舞台になっています。

 舞台裏には支度部屋があり、役者はここで出番を待っていたことでしょう。
その脇には地下への階段があります。
地下へ降りてみましょう。
地下のことを、地獄を意味する奈落と呼ばれています。
舞台の真下には廻り舞台を回すために円形のレールが敷かれており、それを人力で押して舞台を回すのです。

 その後は「山鹿灯籠民芸館」に向かいます。
通りの両側には、山鹿が栄えていた時の建物が残っています。
「甘木屋」もそのひとつで、吉田家の貸店舗です。
明治末期に金融業を営んでした吉田彦三ですが、その屋号を「甘木屋」と語っていました。
今に残るのは明治時代のものと思われ、切妻造りの建物です。

 その先には、珍しい形の門があります。
円形をした門は、空海が開いたとされる「金剛乗寺」の石門です。
天長年間(824〜834年)に空海によって開かれた寺で、西の高野山とも言われたところです。
一時は途絶えてしまいますが、宝徳年間(1449〜1452年)に宥明法印住職によって復興されました。
1473年にはここ「山鹿温泉」が突然枯れてしまいますが、この時に薬師堂を建てて祈願をすることで温泉を復活させたと敬われています。
その後の宥明法印が遷化した時に紙細工の名人である山口兵衛が数百の紙灯籠を作り霊前に供えたことが、山鹿灯籠の起こりとも言われています。
今目にしている円形の門は、1804年に石工 甚吉によって造られた凝灰岩の切石を使った石門です。

 そして角にある洋風の建物が、「山鹿灯籠民芸館」です。
1925年に建てられた「旧安田銀行山鹿支店」で、その後は肥後銀行として1973年まで長く使われていました。
館内には、「山鹿灯籠まつり」で使われる灯籠が飾られています。
「山鹿灯籠まつり」は、頭の上に灯篭を乗せ町を練り歩くものです。
精巧に作られた灯篭ですが、すべてが和紙で作られており非常に軽いものです。
民芸館ではまつりの様子がビデオで紹介されています。
また実際に和紙を張り合わせて灯篭を作る作業が実演されており、見学することができます。
薄い和紙の切った面に乗りをつけ貼り合わせていくといった、実に細かい作業です。
この繰り返しで本物のようなあの美しい灯篭を作っていきます。

 「山鹿灯籠民芸館」の先には、「さくら湯」があります。
1640年に肥後細川藩の山鹿御茶屋として建てられ、1898年に大改修を行います。
改修には道後温泉の棟梁が手掛けた九州最大級の木造建築です。
山鹿温泉の元湯として愛されてきましたが、1973年には惜しまれつつも取り壊されてしまいます。
しかし2012年に昔の面影を忠実に再現し、復活を遂げたのです。
「さくら湯」の横には、先ほどの「金剛乗寺」の話に出てきた薬師堂があります。

 ここから「千代の園酒造」に向けて、歩いて行きます。
左右に宿場町の趣を残す建物が並ぶこの通りこそが、「豊前街道」です。
熊本藩・人吉藩・薩摩藩の大名行列がここを通って、江戸に向かったことでしょう。
街道沿いには、古い街並みが今も残っています。

 「千代の園酒造」は、そんなところにあります。
それまで営んでいた米問屋が、1896年に酒造りを始めます。
米問屋だっただけに米に対してこだわりも強く、酒のために新しい米の品種を作り出したほどの熱の入れようです。
趣のある建物の奥には、白く高いそびえる煙突が目印です。
実は熊本で有名な「赤酒」を造る数少ない酒蔵のひとつです。

 そんな「本田邸」は、1842年の絵図にも描かれているように豊前街道有数の豪商でした。
玄関の柱には、馬をつないだとされる金具も残っています。
長年歴史ある建物のため外壁も4層に塗り重ねられていますが、繁栄当時の姿に再現させています。
残念ながら酒蔵の道向かいにある酒屋は、着いたその時にちょうど店を閉めてしまいました。
もう少し早めに来ていれば、山鹿の酒を飲めるところだっただけに残念です。

 また酒屋の隣には、「木屋」があります。
1830年以前に建てられた木造2階建ての瓦葺きの建物です。
建物の形状は当時の様子を忠実に残しており、近年になって大戸、しとみ戸を復元しています。
間口が狭く奥に50mも伸びた細内が敷地は、京都の町屋を思い出します。
菊池川が近いため、水害時には荷物を2階に移動するための開閉部を持ちます。
酢や味噌を販売している現役の商家です。

 そしてその先には「菊池川」が流れています。
山鹿の物資はこの川を使って運ばれていました。
川には船を寄せたと思われる船着き場の跡が残っています。
物静かな山鹿ですが、川を眺めているとかつての賑わいが見えてきそうです。
 
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