にっぽんの旅 九州 熊本 熊本

[旅の日記]

熊本城と熊本電鉄 

 熊本に来ています。
熊本で是非見てみたいものがあって、やってきました。

 それがあるのは、熊本の中心地から市電のB系統に乗り、終点の上熊本駅です。
子供のころは両親の田舎の熊本によく来ていたものですが、JR鹿児島本線の特急電車で熊本到着のアナウンスが流れるのが上熊本駅辺りで、荷物を準備するところといった認識しかありませんでした。
もちろん、降りたことなどありません。
今回やってきたのは、上熊本から出る「熊本電鉄」に乗りたかったからです。

 上熊本駅前で市電を降ります。
上熊本駅前は電停と言えども、立派な構えをした駅舎です。
そして目指す「熊本電鉄」の上熊本駅はというと、道路にへばりつくように建てられた駅です。
始発駅というのに、看板がなければ駅とは気付かない程です。
電車は30分間隔で走っており、のんびりと電車が来るのを待ちます。

 やってきた電車に乗り、5駅先の終点の北熊本駅まで進みます。
北熊本駅は藤崎宮前と御代志とを結ぶ路線への乗換える駅で、いわば熊本電鉄のターミナル駅です。
ローカル線だけあって、全国各地から払い下げられた電車を見ることができるのです。
とそこに、3色に塗られたどことなく見覚えのある車両がやってきます。
南海電鉄の特急で、ズームカーと呼ばれた車両です。
反対車線には、東京都営地下鉄三田線で使われていたステンレスの車両が入ってきます。
しっかりと熊本が誇るゆるキャラ「くまもん」が塗装されており、実に愛嬌の良い電車に仕上がっています。
そして一番気になっていたのが、「青ガエル」の愛称で親しまれてきた元東急電鉄目蒲線を走っていた車両です。
東京の渋谷で展示されているものと同じですが、熊本では立派に現役で働いています。
ところがこの熊本でも今年度いっぱいで引退が決まり、今回あわててやって来たのでした。
その他、広浜鉄道で生まれ、その後長らく国鉄で活躍した操作場にあるモハ71も、見ることができます。

 熊本に来た最大の目的を果たし、再び熊本中心地に移動します。
ここで「熊本ラーメン」を食べます。
美味しいと教えられた店には、列ができています。
ラーメンなので客の回転はよいのですが、さすが人気店、入るまでに30分以上かかりました。
ぎっとりしたスープに麺が入り、その上には細かく刻んだ焼いたニンニクが降りかけられています。
噛めばコリコリした食感と焼ニンニクの香ばしさが、食欲をそそります。
並んだだけのことはあったラーメン屋だったのです。

 そのラーメン屋と目と鼻の先には、「小泉八雲の熊本旧家」があります。
ギリシャで生まれの新聞記者であり随筆家、はたまた小説家であるパトリック・ラフカディオ・ハーンが、熊本時代に住んでいたところです。
世界を転々としたのちに、1890年に島根県松江尋常中学校の英語教師として日本にやって来ます。
翌年には小泉セツと結婚し、この年に熊本市の第五高等学校の英語教師として迎えられます。
その後は神戸、東京と移り住み、1896年には東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職するのです。
もともと日本に特別の思いを持っていたハーンは、この時日本に帰化し「小泉八雲」と名乗ることになります。
3人の子供にも恵まれ、日本人として生きて行きます。
1903年の東京帝国大学退職時に、その後任が夏目漱石だったことも有名な話です。

 それでは、先ほどから遠くに見えて気になっている「熊本城」に行ってみます。
デパートのある繁華街の通町筋から向かうと、城の入り口にあたる場所に「熊本城稲荷神社」があります。
熊本城築城の神で、通称「白髭さん」と呼ばれています。

 「熊本城」は、文明年間に肥後守護菊池氏の一族である出田秀信が「千葉城」を築いたのが始まりとされています。
しかし出田氏の勢力が衰えると、菊池氏は今度は鹿子木親員に「隈本城」を築かせます。
1550年には豊後守護大友義鑑が家臣の謀反により殺されると、代わって菊池義武が隈本城に入るのですが、義鑑の子である大友義鎮により追われ、城親冬が「隈本城」を居城とします。
親冬の孫 城久基は豊臣秀吉の九州征伐に際し、1587年に筑後国に移るために城を明け渡します。
新たに肥後の領主となり「隈本城」に入った佐々成政ですが、強行な検地が反感を買い、肥後国人一揆が起こります。
成政は切腹を命じられ、加藤清正が領主となり「隈本城」に入ったは1588年のことです。

 清正は、茶臼山丘陵一帯に城郭を築き初め、1600年頃には天守が完成します。
関ヶ原の戦いではその戦いぶりを称えられ、肥後一国52万石の領主となります。
そして1606年に完成した城は、翌年名前を「隈本城」から「熊本城」へと改めます。
1610年には、本丸御殿が建築されています。

 1632年には豊前小倉城主であった細川忠利が、肥後54万石の領主となり「熊本城」に入ってきます。
忠利は城の南の坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、それ以後の歴代藩主はここを日常の居所とします。
忠利は加藤家末期の荒れた「熊本城」を修繕し、建築物の修理のみならず本丸の増築や二の丸の整備も、この時に行われています。

 明治維新後の1870年には、「熊本城」は戦国の余物で無用の産物とされ、藩知事細川護久の主導で解体されることになります。
ところが解体当日になって、前藩知事で保守派の細川韶邦が反対を唱え、解体作業は凍結されることになります。
その後は軍事色を帯び、1875年の歩兵第13連隊の設置を皮切りに、1925年の熊本陸軍教導学校の設置、1943年の熊本予備士官学校の建設が続きます。
西南戦争では「熊本城」は政府軍の重要拠点として西郷軍に立ち向かいますが、1877年の原因不明の出火で大小天守などの建物が焼失してしまいます。
西郷軍の総攻撃のわずか2日前のことでした。
一方14000人の西郷軍に対して、わずか4000人の籠城で「熊本城」を守り抜いたのでした。

 城の西側には「旧細川刑部邸」が、いまも残っています。
熊本藩主である細川忠利の弟細川興孝が刑部家を興したもので、「旧細川刑部邸」は1646年に建築されました。
いまある場所は「熊本城」からは15分ほど離れたところにありますが、ちょうど良い距離で観光客の騒がしさもありません。
建坪300坪の「旧細川刑部邸」は、中を見て回ることができます。

 「旧細川刑部邸」を見終えると、再び二の丸駐車場を過ぎたところにある「桜の馬場」に向かいます。
聞きなれない場所だったのですが、九州新幹線の開業を記念して作られた新しい施設です。
食事と土産物屋が並び、昔の街並みを再現した一角です。
「いきなり団子」は、輪切りにした薩摩芋に小豆餡を乗せ餅で包んだ熊本名物です。
急な来客が来てもいきなり出せる菓子という意味だそうです。
「桜の馬場」の入り口近くの交差点には、熊本の象徴である「加藤清正像」も建っています。

 そして夜には、熊本名物を思いのまま堪能します。
熊本といれば、「馬刺し」を食べずに帰るわけにはいきません。
目をつけていた居酒屋に入って、真っ先に「馬刺し」を注文します。
赤身とたてがみなどの盛り合わせで、ネギをいっぱい入れた生姜醤油で食べます。
馬の肉は癖がなく食べやすいので、お酒が進みます。
そして大好物の「からし蓮根」です。
蓮根の穴にからしをぎっしり詰め、衣をつけて揚げたものを輪切りにして出します。
蓮根のシャキシャキ感と鼻にツンとくるからしの辛さ、そしてなんとなく甘味を感じる周りの黄色い衣が、お酒のあてにぴったりです。
「一文字ぐるぐる」は初めて食べるものですが、ワケギを茹でたものを根元を軸にして葉の部分をぐるぐる巻きつけたものです。
酢味噌につけて食べる熊本県の郷土料理です。
ワケギの甘さと柔らかさで、口に含むと溶けるように喉に入っていきます。

 いやぁ、観るものから食べるものまで満足のいく熊本の旅だったのです。
帰りには、昔熊本を訪れた時によく食べていた「朝鮮飴」を土産に帰ったのでした。

     

     
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