にっぽんの旅 九州 熊本 人吉

[旅の日記]

球磨川と人吉温泉 

 今回の旅は、熊本県の人吉です。
35年以上前に仕事で来た覚えがあるものの、周りを見て回る余裕などありませんでした。
仕事の疲れを温泉に浸かって取ったのが、印象に残っています。
今回は改めて旅行で訪れることにします。

 八代駅で駅弁を買って電車に乗り込もうと、駅弁屋に向かいます。
その駅弁屋は製造現場だけでなく食堂も兼ねており、食事をすることもできます。
電車の出発時刻までは30分余り。
食事をするには忙しい時間と判断したのか、弁当なら出せますとのこと。
それではと、ここで弁当を頂いていくことにします。
座敷に通され、温かいお茶が出てきます。
そこには鮎の甘露煮が乗っている人気の弁当です。
ご飯にまで鮎の味が付いており、上品な味です。

 食事を終えて乗った電車は、腹の中に収まった鮎が住んでいたと思われる球磨川に沿って上流に走っていきます。
最初は川幅の広い川も、人吉に近づくにつれて次第に奇岩が表れる姿になります。
球磨川下りで有名なだけあって、川には白波が見られます。
川の水は澄んでおり底が透けて見えます。
そんな車窓を眺めていると、電車はあっという間に終点の人吉に到着しました。

 人吉駅のホームには、巨大な「きじ馬」が出迎えてくれます。
熊本の郷土玩具です。
駅前ロータリーを見ると、城の形をしたモニュメントがあります。
そして改札口の横に目を移すと、川上哲司の像が立っています。
そう野球の神様と称される川上哲司は、ここ人吉の出身なのです。

 さてここから、人吉の町を巡ってみます。
まず訪れたのは、「青井阿蘇神社」です。
鳥居の奥には茅葺の拝殿があり、厚い屋根を持つ建物は威厳があります。
806年に創建された「青井阿蘇神社」は、阿蘇山のふもとにある阿蘇神社の御祭神12神のうち、神武天皇の孫にあたられる健磐龍命(たけいわたつのみこと)、その妃の阿蘇津媛命(あそつひめのみこと)、子供の國造速甕玉命(くにのみやつこはやみかたまのみこと)の3柱が祀られています。
川に架かる朱色の欄干の石橋を渡ります。
鳥居の先にある立派な山門を潜ると、その先には茅葺の屋根をもつ拝殿がありその巨大さに圧倒されます。
ここは毎年10月には「おくんち祭」が行われるところでもあります。

 神社の前には「青井桜馬場跡」の碑が建っています。
鎌倉時代に相良家初代長頼が「青井阿蘇神社」を敬ったことから、神社の前で定期市が開かれるようになります。
現在の商店街の始まりで、門前町が形成されていきます。
この門前に桜を植えたことから、桜馬場と呼ばれるようになりました。

 そこからは、球磨川に沿って東に進みます。
通りから少し入ったところに見える銭湯は、「新温泉」です。
ここには夜に入浴に来ようとしていますので、詳しくは後ほど。
その先の信号には、「札ノ辻跡」です。
「札ノ辻跡」とは、高札がこの場所に掲げられいてたことからそう呼ばれるようになりました。

 ここで右に折れて、球磨川に架かる大橋を渡ります。
そこには「五木の子守歌」の石碑が建っています。
 おどま ぼんぎり ぼんぎり
 ぼんからさきゃ おらんと
 ぼんがはよくりゃ はよもどる
「五木の子守歌」も有名なのですが、かつてテレビでカレーのコマーシャルで流れていた替え歌がどうしても頭から離れません。
年季奉公で子守りをしていた球磨地方の娘たちが口ずさんでいた節で、盆の時期までの奉公に対して盆が早くやってくればそれだけ親元に早く帰れるとの願望を唄ったものです。

 それでは球磨川に架かる大橋を渡りましょう。
川の中央にできた中州が、「中ノ原公園」です。
公園を挟んだ両側の川には、水がゆっくり流れています。
橋を渡り切り南岸まで来ると、人吉城の角櫓跡が見えます。
さらに南下して歩いていきます。

 左手に人吉城の大手門が見えますが、ここであえて右に曲がってみます。
そこには織月酒造の焼酎蔵があります。
蔵は中を見学することができます。
その先には公衆浴場の「堤温泉」があります。
さすが温泉地とだけあって、いたる所に公衆浴場があります。
またその通り反対側には、武家屋敷が今に残ります。
ここは西南の役で西郷軍幹部宿舎となっていたところでもあります。

 その先には「永国寺」がありますので、そちらにも向かってみます。
相良家9代目の相良前続の開基した寺で、寺に伝わる幽霊の掛け軸があることから幽霊寺の異名で知られているところです。
山門の前には「耳塚」と呼ばれる「千人塚石塔」があります。
朝鮮出兵の際豊臣秀吉は敵兵の耳鼻をそぎ落とし塩漬けにしたものを証拠として提出するよう命じます。
この石塔はその霊を慰めるために造られたもので、元は門前の千人塚にあったことから「千人塚石塔」と呼ばれています。

 それでは、先ほど目にした人吉城の大手門に戻ります。
球磨川に注ぐ胸川を渡り、城の敷地に入っていきます。
かつて存在していた大手門の跡が残っています。
ここで右に曲がり「人吉城歴史館」とは反対の方向に向かいます。
その先にあるのが、「人吉温泉元湯」です。
ここに住む4軒の住民が掘った温泉で、公衆浴場として安価で解放されています。
城の敷地内にあり、今では掘ることを許されないことでしょう。

 その先には「人吉城御館(みたち)跡庭園」があります。
石橋の先にある閑静な日本庭園です。
そして庭園内には「力石」が置かれています。
関ヶ原の戦いで徳川家康から人吉藩の初代藩主を任された相良長毎は、家老の相良清兵衛(犬童頼兄)を目にかけていました。
ところが次第に清兵衛の振舞いの横暴さが目立つようになってきました。
朝鮮の役や関ヶ原の戦いなどでその才を発揮した清兵衛に対して処罰を下すこともできず2代目藩主 頼寛は清兵衛を幕府に訴えたところ、清兵衛は津軽藩に追放されることになります。
その際、清兵衛の養子である田代半兵衛とその家族は、清兵衛の人吉屋敷に立てこもり藩兵と戦闘になります。
いわゆる「お下の乱」です。
屋敷内に火の手が上がるのを見た城下の士卒が主君の安否を気遣い駆け付けたものの、門が閉ざされて入ることができませんでした。
そこで付近にあった大きな石で門を突き破ったとされるのが、今も残る「力石」なのです。

 さて先ほど行きそびれた「人吉城歴史館」に向かいます。
人吉を長年治め続けてきた相良氏の、歴史がここで理解することができます。
源頼朝に仕えた遠江国相良荘国人の相良長頼は、1205年に肥後国人吉荘の地頭に任ぜられます。
元々この地に城を構えていた平頼盛の家臣である矢瀬主馬佑の城を、拡張しその後の人吉城の基礎となったのがこの時期です。
戦国時代になると相良家は球磨地方を統一します。
江戸時代に2度の町の火災で焼失するものの、城は再建されます。
明治になり1871年の廃藩置県によって廃城するまでの間、長きに渡り相良家が球磨地方を治めることになったところなのです。

 歴史館は相良清兵衛屋敷があった場所に建っています。
敷地内の「蔵」と書かれた建物にあたる場所から地下室が発見されており、歴史館の地下に降りてみることができます。
石段の降り口を進んでいくと、方形の井戸があります。
「お下の乱」直後に破壊され埋められたものです。

 その「人吉城趾」を実際に見てみましょう。
途中に球磨川側には「水ノ手門跡」があります。
球磨川に向けて造られた水運用の城門です。
その先には城へ続く石垣と、その間に上に伸びる石段があります。
それではここを登り、三の丸、二の丸、本丸に向かっていきましょう。
かなり急な石段で、登るのは一苦労です。
しかし山頂からの球磨川と人吉の町の眺めは、素晴らしいものがあります。

 球磨川の脇には「船着場跡」も残っています。
城の入り口から石段を下り、川辺に出ることができます。
先ほどの「水ノ手門」同様に城への荷役の積み下ろしに使われたのでしょう。

 ひと通り城を見終えて、それではここから人吉の町を横切り駅の北側に向かいます。
途中狭い道幅の鍛冶屋町通りを抜けて行きます。
通りには古くから続く味噌・醤油蔵が並び、「釜田醸造所」もここにあります。

 その他にも町の中には「芳野旅館」があります。
田口豊吉が妻の実家を改築し開いた料亭で、旅館として今に残るものです。

 さて駅の北側まで抜けてきました。
なぜここに来たかというと、「大村横穴群」があるのです。
横穴群とは古墳が形を変えたもので、阿蘇熔結凝灰岩の崖面に東西約550mにわたって分布する横穴群のことです。
古墳時代の後期にこれまで盛んであった前方後円墳に代わり、横穴墓が造られるようになります。
全国の横穴墓のうち実に3割が熊本県に集中しており、5世紀末の九州を起源とし7世紀にかけて全国に広がったとする説が有力です。
肉眼で確認することは難しかったのですが、横穴の外面には動物、武器、武具、幾何学文様が描かれ死者を弔っているということです。

 このころには陽が傾き、かなり冷えてきました。
一旦はホテルに戻り、食事に出直します。
熊本が誇るからし蓮根でビールを味わい、刺身に焼き魚、切り干し大根などが付いた定食を頂きます。
結構な量があるのに、これがびっくりするほど安いのです。
これには大満足です。

 食後は、昼に見てきた公衆浴場「新温泉」に向かいます。
ホテルのすぐそばですが、終了時刻の22:00が迫っていますので急いで歩きます。
番台のある、昔ながらの銭湯です。
混んでいないかが心配だった浴場も、地元の人が1名入っていただけでまるで貸し切りのようです。
壁は下半分に石が張られ、その上は3面が大きな窓、女湯との境だけは擦りガラスになっています。
湧き出る湯は風呂桶の隅から溢れだして、垂れ流し状態です。
ちょっと暗めの味のある銭湯で、身体の芯から温まったのでした。

       
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