にっぽんの旅 九州 熊本 三角

[旅の日記]

キリシタンを守る天草 

 今回は2泊の日程で天草の旅です。
天草と言えば50年以上前に訪れたきりで、はじめてに近いくらいの新鮮な場所です。
その天草には、1回目の時と同様にバスでやってきました。
天草五橋で有名な5つの橋を渡り、九州本土から天草に入ったのです。

 天草五橋とは、天門橋と残り4つがほぼ連続する大矢野橋、中の橋、前島橋、松島橋から成ります。
九州の三角からこれら五橋を通ることで、天草本島に陸路で渡ることができます。
5つの橋は1962年の着工から4年の年月を経て1966年に完成し、これまでの陸の孤島から解放されたのです。
まずは天門橋から渡っていきます。

 最初にバスが着いたのは、大矢野島にある「さんぱーる」です。
バスが着いたドライブインには、鶏(天草大王)、エビ、鯛など天草で採れる産物のモニュメントが並んでいます。
車エビは、天草が日本初の養殖を始めた場所なのです。
何故ここに来たかというと、天草四郎を称える資料館があるからです。
「天草四郎ミュージアム」は、「さんぱーる」のドライブインの通りの反対側にありました。

 織田信長が西洋の文化を取り入れるために勧めてきた南蛮貿易ですが、豊臣の世になると突如1587年に秀吉が突然の「バテレン追放令」を出します。
仏教以外の宗教を許さない方針変更に、キリスト教徒は戸惑います。
さらに徳川の時代になると1613年に今度は江戸幕府が「キリスト教禁止令」をだし、キリスト教を激しく取り締まります。
俗にいう「禁教令」です。
キリスト教徒は潜伏キリシタンとして、表向きは仏教徒と振る舞って天草、島原で生き続けます。
やがて救世主が現れるというお告げがあり、ちょうどその時に現れたのが天草(益田)四郎だったのです。
若干16歳の若者でした。
そんな折、島原・天草の乱が1637年に勃発します。
一般にキリシタンの反乱とされていますが、年貢の厳しい取り立てなどの悪政に対する農民の怒りが現れた一揆なのです。
何人も平等であるべきと唱えるキリシタンも、これに参加します。
詳しくは島原の紀行記に示していますが、各地で政府軍を蹴散らした農民たちも最後は島原の原城に集結し、そこで壮絶な戦いが繰り広げられます。
しかし兵糧攻めに合い、キリシタンは全滅してしまいます。

 ここ「天草四郎ミュージアム」では、天草四郎の無念に応えるように記念館として当時の様子を紹介しています。
当時を偲ぶものとして経消しの壺が展示されています。
これは仏教徒に振る舞っていた潜伏キリシタンも、葬儀に際しては仏教式の葬式を行います。
別室ではキリシタンたちが「経消しのオラショ(祈り)」を唱えて、仏教の経文を壺に吸わせ効力を消します。
その後改めてキリスト教の葬儀を極秘で行っていたのでした。

 「天草四郎ミュージアム」の裏手には、彼の銅像が立っています。
またその奥には、四郎の墓もあります。
ここに参って、この日は天草上島で宿泊することにします。

 翌日は朝から天草上島を通って天草下島にバスで移動します。
天草五橋の他の橋を渡って、本渡まで進みます。
途中大小の島々が点在し景色の綺麗な天草松島を見ながら、バスは走ります。
本渡バスセンターからは市の運営する名所巡りのバスに乗るのですが、まだ2時間以上時間があります。
暫くはこの辺りを散策してみることにします。
本渡バスセンターに近い歩いて行くことができる「祇園橋」は、今も残る石橋です。
1832年に建造された5列9行45脚のといった多脚式の橋で、日本最大の石橋なのです。
崩壊の危険があるために渡ることはできませんが、歴史的価値のあるものですから大切に保存されています。
何に価値があるかというと、島原・天草の乱の激戦地だった場所なのです。
町山口川は血に染まり、真っ赤な水となったとされてます。

 橋の北側には、「八坂神社祇園社」があります。
境内からは石鳥居の間から、先ほど見てきた「祇園橋」を臨むことができます。
また「八坂神社祇園社」の裏側には、「尾越の板碑」が祀られています。
これは供養碑で、志岐氏に本渡を追われた天草氏が「本渡城」を奪回するために1530年に起こした合戦を弔ったものです。

 ここから北に行くと、「天草カトリック教会」があります。
さらに歩いて行きましょう。

 丘の上にある「殉教公園」は、かつての「本渡城」があった場所です。
1590年には城主の天草伊豆守種元と小西行長、加藤清正が激しい戦いを繰り広げました。
天草種元はドン・アンドレアというキリシタンで、戦いでは宣教師と付近のキリシタンが城内に立てこもりました。
同じキリシタンである小西行長は攻撃に躊躇したものの加藤清正は攻め込み、ついに種元は切腹し「本渡城」は落城してしまいます。
両者ともに多くの犠牲を出した戦いだったのです。

 その先に「天草キリシタン館」はあります。
島原・天草の乱を中心としたキリシタンの動きが記録されています。
血が染まった天草四郎陣中旗が展示されています。
キリシタン弾圧期で使われた踏み絵や、キリシタンの生活が偲ばれるマリア観音などもあります。

 さて昼食を取り、ここからはキリスト教に信心深い潜伏キリシタンが住んでいたところを巡るバスに乗ります。
路線バスのバス代程度で島の主要な場所をガイド付きで回ることができ、非常に便利な乗り物です。
最初に訪れたのは、「天草コレジオ館」です。
コレジオというのは大学のことで、神父を要請する大学の名が付いた博物館です。
「天草コレジオ館」には、南蛮貿易に使われたポルトガル船の模型が飾られています。
またその時に使用された羅針盤も、大切に保管されています。
さらには天正遣欧少年使節が持ち帰ったグーテンベルク印刷機のレプリカが置かれています。
この印刷機ではキリスト教の布教本である天草本が刷られ、当時としては画期的なものだったそうです。

 バスに乗っていて気付くのですが、正月までまだ日があるのに軒先にはしめ縄が飾られています。 聞くと天草では1年中しめ飾りをつけているそうです。 その理由は禁教令でキリスト教は封印され踏み絵などのキリシタンを摘発を恐れ、潜伏キリシタンは仏教徒であるがごとくしめ縄を飾って身を隠していました。 それが正月だけでなく年中しめ縄をする習慣になっています。 ただし現在しめ縄を飾っているのは、本当の仏教徒だけとのことです。  次に訪れたのは、「崎津集落」です。
天草で潜伏キリシタンが多く集まっていたのも、この場所です。
禁教期のア津集落の潜伏キリシタンは、大黒天や恵比須神をキリスト教の唯一神であるデウスに見立てていました。
「諏訪神社」はそんなキリシタンが集まっていた場所です。
彼らはアワビの貝殻の内側の模様を聖母マリアにそれぞれ見立てるなど、身近なものをキリシタンの信心具として代用するということによって信仰を実践してきました。
禁教令の解かれたいまでは、寺の前にマリア像が建っています。

 「諏訪神社」を出たその先にあるのが、「ア津天主堂」です。
禁教令の解かれるといち早くキリスト教に返り、教会を造りました。
建築家 鉄川与助によって1934年に建てられたゴシック様式の教会で、教会の入り口側は鉄筋構造なのに対して奥側は木造です。
建築資金が底をつき、外から見ると入口と奥が違った造りになってしまいました。
中に入って驚くのは、教会ですが床に畳が敷かれていることです。
庶民の教会ということが判ります。

 また教会の傍には「崎津資料館みなと屋」があります。
旅籠だった建物を改修した資料館で、崎津の潜伏キリシタンについての資料が展示してあります。

 ここで「ア津集落」の名物を食すことにします。
それが「杉ようかん」で、名前はようかんですが杉の葉を添えた餅です。
琉球から伝来したといわれる「杉ようかん」は、紅白のねっとりしたうるち米が特徴です。
そして、中には甘みを抑えたあんこが入っています。
杉の葉は殺菌効果を出すために添えられているとのことです。

 「ア津集落」の端まで歩いてみましょう。
そこには「紋付屋旅館跡」があります。
ここは、太平洋戦争末期から戦後にかけてのNHK連続テレビ「藍より青く」の舞台になったろころです。

 もうひとつ「ア津集落」に特徴的なものがあります。
海に面した家屋には船をつける舟屋のようなものがあり、それをカケと呼びます。
京都伊根の舟屋にも似たところがありますが、伊根では建物の中に船を収容しているのに対し、崎津は船に付いたロープを家屋に括り付けています。
まるで飼い犬の鎖をつけているかのようです。
「旧網元岩下家 よらんかな」では網元の家を再現し、そこから見える集落に広がるカケを眺めることができます。

 さて「ア津集落」にはキリストにかかわるもうひとつのものがあります。
「海上マリア像」で、海に向かって立っているマリアの像です。
ここを往き来する船人や漁人に海の道しるべとして造られたものです。

 「ア津集落」を後にしたバスは、次なる「天草ロザリオ館」に向かいます。
禁教令下で繰り広げられたキリスト信仰の数々が、展示されています。
実際にあった隠れ部屋では、ここで密かに信仰が行われていた証です。
また柱の中にキリスト像が隠れていたり、禁止されていた信仰も敬虔な信者によってこの地では途切れることなく行われていたことが判ります。

 そして「天草ロザリオ館」から見える高台の上には、真っ白の教会があります。
バスはその「大江天主堂」を目指します。
丘の上に建つロマネスク様式の教会で、1933年にフランス人宣教師ガルニエ神父が地元信者と協力して建立したものです。
キリスト教解禁後の天草で最も早く造られた教会で、現在の建物は1933年のものです。
彼は教会設立のために生涯で一度もフランスに帰ることなく、金を貯めて教会建設に奔走します。
そしてこの地で生涯を終えました。
この素晴らしい話の腰を折るようですが、教会の周りには多くの豚舎がありその匂いは強烈なものだということを付け加えておきます。

 バスの旅を終え、本渡に戻ってきました。
今晩は海で採れた魚の造り、天草の車エビの天ぷらとともに、もうひとつ食べたいものがあります。
お目当ての店は閉まっていたのですが、別でも出してくれるところがありました。
「押し包丁」と呼ばれる郷土料理で、小麦粉を練った生地をのばし包丁で押して切って作るものです。
うどんのようなもので、醤油と鰹の出汁が野菜と絡みよい味を出しています。
天草の味を満喫したのでした。

 一夜明けて、翌朝は本渡の町を散歩します。
「本渡歴史民俗資料館」では、天草の歴史が語られています。
「妻の鼻墳墓群」から出土した古代の勾玉や鉄剣、江戸時代に使われていた古文書や民具、近いところでは太平洋戦争でのゼロ戦の展示など、天草の歴史が凝縮されています。
資料館の前には不知火海が広がっており、朝の澄んだ空気が気持ちよいです。
この後「本渡港」を巡り、天草から帰路に就いたのでした。
   
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