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[旅の日記]

鹿児島の天文館 

 本日は、鹿児島の旅です。
鹿児島の繁華街「天文館」を中心に散策します。

 鹿児島中央駅から「天文館」までは、市電が走っています。
黄色と緑に塗られた車体が、鹿児島市電の標準色です。
新型車両には目もくれず、標準色に塗られた電車に乗ってガタゴト揺られて行きます。

 「天文館」といっても今は繁華街の名前で、不自然な名前に疑問が湧きますが、実はそこには正当な理由があります。
その答えは、商店街のアーケードの下にあります。
商店街には「天文館跡の碑」なるものがあり、それによれば島津第25代の重豪は天文観測のために1779年にこの地に「明時館」を建設します。
藩内の暦の作成はこの「明時館」が一手に引き受け、薩摩暦と呼ばれていました。
「明時館」のことは別名「天文館」と呼ばれ、それがこの地が「天文館」となった由縁なのです。
そして今こそ面影はありませんが、当時のこの辺りは武家屋敷が広がっていたのです。

 ここから少し北に進んだところに、「ザビエル公園」があります。
イスパニアの宣教師フランシスコ・ザビエルは、1549年に鹿児島祇園之洲に上陸し、その後約1年を鹿児島で過ごします。
彼はキリスト教を日本に普及し、併せて西洋の文化を伝えました。
ザビエル教会は第2次世界大戦で焼失しまいますが、石造りの旧聖堂の一部は今も残っています。

 「天文館」から信号のある通りを東側に2筋越えたところに、デパート「山形屋」があります。
1751年の創業で、山形県庄内地方の北前船商人が薩摩藩主の許可を取って開いたのが、「山形屋呉服店」です。
1999年には昭和初期のルネサンス調の外観が復元されました。
デパートではほぼ消えてしまった大食堂を持つのも「山形屋」の特徴で、野菜入りのあんをかけた焼きそばが1958年のメニューに加わった当初から根強い人気を誇っています。

 この辺りをぶらついてみます。
芝の敷き詰められた「中央公園」から道を挟んだところに、「中央公民館」があります。
1924年の昭和天皇ご成婚の記念事業として建設が始まったもので、1927年に完成しています。
片岡安の作品です。

 「中央公民館」の横の小高い丘には、「西郷隆盛銅像」が立っています。
薩摩国薩摩藩の下級藩士 西郷吉兵衛隆盛の長男として1828年に生まれた小吉は、その後隆永、武雄、隆盛と名を改めていきます。
開明派大名であった藩主の島津斉彬の目にとまり、下級武士から大抜擢されていきます。
隆盛は斉彬の死で失脚し奄美大島に流され、その後は復帰するものの島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭ってしまいます。
小松清廉や大久保利通の後押しもあって復帰した後は、薩長同盟の成立や明治維新で江戸城無血開城を果たし、明治新政府設立に大いに貢献します。
しかし1873年の政変で中央を離れ、鹿児島に戻って私学校での教育に専念するようになります。
新政府に対する士族の反乱が続く中で、ついに1877年には私学校生徒の暴動から起こった西南戦争が勃発し、その主導者となります。
しかし新政府軍の勢力に勝つことはできず、城山で自刃し一生を終えたのです。

 その城山を訪れるのですが、その前に寄っておきたいところがあります。
「照國神社」は島津家28代で11代藩主 島津齊彬を祀る神社です。
島津齊彬は、1809年に島津斉興の長男として生まれます。
1851年に藩主に就任した齊彬ですが、黒船来航時の砲撃に日本の武器では歯が立たないことを痛感し、いち早く海外の技術を入れようとします。
富国強兵を掲げ、溶鉱炉の建設そして大砲製造や造船などに力を注ぎ集成館事業を興します。
このことが薩摩の近代化を大きく加速させることになったのです。

 「照國神社」まで来て、少し「天文館」に近付いたこともあって、ここでお昼にしましょう。
鹿児島で食べたかったもののひとつに、「鹿児島ラーメン」があります。
予め調べておいたいくつかの人気店から、最初に見つけた店に入ることにします。
出てきた丼には、半濁スープのなかに麺が浸かっています。
大きな平たいチェーシューが入っているのではなく、どちらかというと細切れの肉が散りばめられているといった状態です。
その肉はトロリとしていて、口に入れると溶けてしまうような柔らかくて旨味があるのです。
麺もスープも期待通りのうまさに満足で、近ければもう一度食べに来たい味です。

 食事も終え、再び「西郷隆盛銅像」まで戻りましょう。
そしてここからは、磯街道を北に向かって歩きます。
裁判所が見える辺りでは、左手に石垣が続きます。
この石垣こそが、「鹿児島城」(通称「鶴丸城」)のものなのです。
1604年に完成した「鶴丸城」も、本丸、二ノ丸、出丸が築かれただけで、外様大名であった薩摩藩には天守など高層建築は造ることを許されませんでした。
その代わりに島津氏は中世式の山城を各地に配し、それぞれの家臣に守らせる外城制度を取りました。
天守を構えなかったのが功を奏したのか、幕末にイギリス軍艦から砲弾を浴びせられた時も、敵は寺を天守と間違えて攻撃してきたという話があるくらいです。
度重なる建て替えが行われ、1874年に焼失した後は再建されることはなく、旧制第七高等学校そして戦後は鹿児島大学がこの土地を利用することになります。
いまでは近代的な歴史資料センター「黎明館」が建っています。

 その「黎明館」の北側には、石垣で囲まれたところがあります。
いまは病院が建っていますが、西郷隆盛が1874年に設立した「私学校跡」です。
そしてその石垣には、無数の小さな穴が開いています。
西南戦争の際、新政府軍の銃弾が打ち込まれた跡が今も生々しく残っています。

 道を隔てた東側には、「県政記念館」があります。
1925年に建設されたネオ・ルネッサンス様式の「旧県庁舎本館」です。
館内には、鹿児島県政のあゆみが紹介されています。
人混みもなく、ゆっくりと見て回ることができます。
その他「黎明館」の北側出口を出たところには「薩摩義士碑」も建っています。

 それでは、ここから観光地を中心に町を巡るバスに乗り、城山まで行きます。
その途中には、広場の向こうに洞窟が見えるところがあります。
これが「西郷洞窟」で、西南戦争の際に圧倒的な新政府軍の勢力に追われて逃げてきた西郷隆盛は、ここ城山で立てこもります。
そして最後の5日間を過ごしたのが、この洞窟と伝えられています。
山間にぽっかり開いた2つの穴は洞窟になっていて、自害する直前まで潜んでいたと言われています。

 そして「城山」は、標高107mの小高い山です。
西南戦争の舞台になったことなど知るすべもなく、鹿児島市街を見渡せる平和なところです。

 最後に訪れたのは、鹿児島中央駅近くの「維新ふるさと館」です。
長州、土佐と並び、ここ薩摩からも明治維新の原動力となる数々の人物を生み出してきました。
西郷隆盛や大久保利通など、維新に向かっての様子と新政府樹立から西南戦争に至るまでが、各ブースでのビデオや映画で知ることができます。

 そして「維新ふるさと館」の外には、小さな公園があります。
その中には石を積み上げたような場所があり、その中央に石碑が立っています。
これこそが「西郷隆盛誕生地」の碑なのです。

 鹿児島中央駅も近いことなので、美味しいと聞くとんかつやに行ってみます。
もちろんここまで来たからには、「鹿児島黒豚」を食べずにはいられません。
列ができる店と聞いて来たのですが、さすがに夕食には少し早目の時間帯だったのか、すんなり入ることができました。
注文したとんかつが、できあがるのを待ちます。
昨日の深酒もあって、今晩は酒を断って食事に専念します。
とんかつはすごく柔らかく、さくっとしたころもに甘めのソースが合います。
これは満足、鹿児島に来た甲斐がありました。

 そして今回の夜食は、鹿児島が誇る「かるかん」です。
山芋と米の粉から作られるスポンジ状の白い饅頭の中には、あんこが入っています。
見た目ほども甘くなく、いくつも口に運んでしまいます。

 翌日、観覧車が見える鹿児島中央駅から乗るのは、JR日豊本線を走る特急「きりしま」です。
普通電車に揺られることが多い旅ですが、今回は特別に特急電車での移動です。
実は乗車券を購入するのとほぼ同額での特急券付き乗車券を、昨日の夕食の直前にディスカウントショップで入手していたからです。
格好いい特急の車体に乗り込んで、気分は上々です。
ということで、歴史と食と乗り物すべてに満足した鹿児島の旅でした。

   
 
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