にっぽんの旅 九州 鹿児島 奄美大島

[旅の日記]

奄美大島(青い海と西郷どん) 

 今回の奄美の旅は、奄美大島の東側を巡ってみます。
奄美大島には「しまバス」と呼ばれる路線バスが走っていますが、やはり点々とする観光地を結ぶには自動車が便利です。
ちょうどトヨタレンタカーの3割引きキャンペーンを見つたので、借りることにします。
予約を入れて安心していると、借りる前に電話がかかってきました。
どうやら開始時間に店を留守にしたいので、車に名前を書いておくので乗っていってほしいとのことです。
鍵を置いたまま誰でも盗める状態で車を置いておくなんて、のんびりした島だからこそできることですね。
仮に車が盗まれても、島から逃げることはできないですし。

 朝一番にやって来たのは「ハートロック」です。
赤尾木集落にある砂浜に行けばいいのは判っていたのですが、それがどこなのかが判り難くいのです。
レンタカーのカーナビは主要な地名しか検索ができず、電話番号で検索すれば良いと聞いていたものの海岸に電話はありません。
ケータイのGoogleマップを頼りに、やっとたどり着いたのでした。
車を降りて浜までは、ちょっとした林を越えていかなければなりません。
ハブがいないことを確認しながら、目を凝らして進みます。
踏み固められた通路の真ん中を、いそいそと通ります。
途中に真っ赤な花びらの植物が気になりますが、やぶの中に入るとハブによる命取りになるので遠目で眺めるだけにします。

 そして林を過ぎて、目の前には白浜が広がります。
oogleマップが示す岩場に寄ってみます。
時折波しぶきがかかる、干潮の時しか現れないハート型の潮だまりです。
干潮時間を調べ、朝いちばんを目指してやってきた甲斐がありました。
写真では朝日の輝きで、うまく見えたでしょうか。

 せっかく海沿いまで来たので、海岸線に沿ってドライブといきましょう。
少し走ると、やがて前方に土浜海岸が見えてきます。
遠浅の海は、潮が引いて海底が浮かび上がっています。
かなりの沖合までが陸続きになっているのが判ります。

 さらに進みましょう。
左手に奄美のテーマパークである「奄美パーク」、そして右手には先日降り立った「奄美空港」があります。
もう少し北上します。

 やって来たのは「土盛海岸」です。
駐車場に車を停め、浜に向かって歩いて行きます。
浜への入口まで来ると木々の先に真っ青な海があることに気付きます。
浜に出ると一段とその青さが判ります。
コバルトブルーとは、まさにこのことです。
目の前で波しぶきをあげる水は海の底が見えるほど澄んでいて、その先の沖に続くところは真っ青なのです。
こんなきれいな風景はあるものかと、奄美大島一の感動でした。


 さて次に訪れたのは、「あやまる岬」です。
ここからは北側に、サンゴが敷き詰められた海を見ることができます。
湾を埋め尽くす勢いの量で、サンゴ礁の広さは半端ではありません。
そのせいで、白波ははるか沖合であがっているのが判ります。
東側眼下は「あやまる岬観光公園」になっています。
おもちゃの汽車が走っており、時折汽笛が風に乗って聞こえてきます。

 それではここで少し奄美のことについて、お勉強をしましょう。
「奄美市歴史民俗資料館」に入ってみます。
奄美の遺跡からの出土品、中世から近代まで人々が使ってきた道具が展示されています。
琉球に近く薩摩藩の統治下にあった奄美が、琉球貿易の要としての位置づけが判ります。
本土から見ればいまでこそ南の孤島の奄美ですが、当時は重要な存在であったのです。
また亜熱帯の温かい気候が影響して、古代から人が住み着いたことを示す遺跡が島中に点々としています。
その他いまも残る豊富な自然、古くから伝わる独特の文化などが、ここでは紹介されています。

 車はさらに北上します。
先ほど「あやまる岬」から見えていたサンゴの浜が、間近で見ることができます。
海中で見る白や赤のものとは違い、見栄えはもうひとつです。
車は海岸線を走ります。

 この辺りは車がなければ移動が不便でしかも年寄りが多いことから、島民は車で行き来します。
前にそんな車が入られると、ちょっとやそっとでは進めません。
制限速度通りの安全運転だからです。
今回はそれにも増して、常に時速20km/hを保つ車に出会ってしまいました。
後ろ姿から想像するに、運転しているおじいちゃんと助手席にはばあちゃん。
急ぐそぶりは、これっぽっちも見せません。
自転車同等の速度であったおかげで、周りの景色を十分に見ることができました。

 その先にあったのは「カトリック大笠利教会」です。
大きな教会が田舎の木々と空き地ばかりのところに、突如として現れます。
人口に対するキリスト教信者の数では、長崎に次いで鹿児島が2位なのです。
江戸時代の隠れキリシタンを経て、今に至っています。

 さらに先に進むと「用海岸」があります。
太平洋を臨む白浜が続く、綺麗な海岸です。
ただでさえ混まない奄美の浜で、ここまで来る人はいないのでしょう。
浜を独り占めできます。

 さてここからは海岸線に沿って半島をぐるりと回り、朝一番に訪れた「ハートロック」近くまで戻ります。
次に訪れるのは「大島紬村」です。
奄美大島の名産といえば大島紬です。
その製造現場が観光用に公開されていますので、見学することにします。
まずは絹糸に対して木綿で挟込んで、絞りを入れます。
それを大胆にも泥水に浸けてしまうのです。
これは奄美の泥に多く含まれる鉄分が酸化することを利用して、絹に色を付けていくためです。
色付けに必要な場所の糸をほどき、目的の色を施していきます。
それが実に繊細で、織物として仕上がったデザイン(設計図)通りの位置に色が付くように、微妙な調整をしていきます。
今度はその糸を織機で織っていきます。
設計図通りに縦糸を織機にかけ、そこにこれまた設計図通りに横糸を織り込んでいきます。
少しでもずれるとできあがった図柄が台無しになる、精神力のいる細かな作業です。
そうしてようやくできあがるのが、大島紬なのです。
この精細さには、恐れ入りました。
大島紬でよく目にする菱型の柄は、この地方に多く存在するソテツの葉と実が描かれています。

 外では泥染めが行われています。
とそこに見慣れない鳥がやってきます。
「大島紬村」の説明員が、興奮し声を露わに鳥の方を見るように促します。
奄美大島と徳之島にだけ分布する「ルリカケス」です。
珍しい鳥でしかもつがいの2羽で、泥染めをしている奥の木々の間に降りてきたのです。
あの「金作原原生林」に行っても見ることができなかっただけに、得をした気分になりました。

 園内には「高倉」も残されています。
「高倉」とは穀物を保存する茅葺の倉庫で、地面にあるのは4本の柱だけで穀物は階段を上った2階に貯蔵されています。
ネズミなどの動物から、穀物を守るための知恵です。
奄美型高倉は、与論島を除いた奄美諸島とトカラ列島だけで見ることができます。

 ここで再び移動し、トンネルを越えたところにある食堂に向かいます。
ここでは奄美名物の「鶏飯」を出してくれるのです。
奄美に来て一度は食べてみたかったもののひとつです。
筋状にさいたかしわ、錦糸卵、醤油味のシイタケ、それに薬味が皿に盛られてきます。
鍋には鳥から取った澄んだだし汁が、並々と入っています。
それにお櫃で1セットです。
茶碗にご飯をよそい、かしわや卵などをふりかけ、そこにだし汁を注げば完成です。
「鶏飯」とは、一言でいえば上品なお茶漬けなのです。
だし汁がさっぱりとして美味しいので、山盛りのお櫃のご飯もみるみるうちになくなっていきます。
奄美の伝統の味だったのでした。

 さてお腹も満たし、ここからは龍郷の町を回ります。
街を車で走っていると、真っ白な教会を見付けました。
1908年にフランス人宣教師のブイジュ神父によって建設された「瀬留カトリック教会」です。
奄美では珍しいゴシック様式の建築で、聖堂と司祭館は国の登録有形文化財にもなっています。

 さらに北に進みます。
湾になっており波が穏やかなこの辺りは、水はどこまでも青く澄んでいます。
そんなところに「西郷松」と呼ばれるところがあります。
薩摩藩の下級藩士であった西郷吉之介(のちの隆盛)は薩摩藩主 島津斉彬に認められるものの、斉彬の死後は苦労の連続でした。
大老 井伊直弼の腐敗した政治に嫌気がさし直弼の排斥を企むものの失敗に終わり、薩摩に帰ってしまいます。
直弼による尊皇攘夷や一橋派の大名への弾圧が行われたのも、この時期です。
幕府からは目を付けられた吉之介をかくまうために、島津藩は日向(今の宮崎)に吉之助をかくまいます。
絶望感にかられた吉之介は入水自殺を試みますが死にきれず、藩は戸籍上は死亡としたうえで菊池源吾と名を変えて奄美大島に島流しにします。
幕府の目から隠すための潜居だったので、不自由しない待遇で6石の扶持米を受け不自由しない生活を保障されていたということです。
その西郷が1859年に奄美大島の土を初めて踏み、船をくくったと言われるのが「西郷松」なのです。
今は枯れて松はありませんが、石碑にその様子が刻まれています。

 「西郷松」を見たからには、その先の吉之介が住んでした住居を見ずには帰れません。
「西郷南洲謫居跡」は、その先の集落のなかにあります。
門を入ると、そこには大きな石碑が建っています。
勝海舟が寄せた碑文が、記されいます。
その奥の藁葺きの住居が、島妻 愛可那と吉之介が住んでいたところです。
島妻とは流人が島で結婚を許され夫婦の契りを結びますが、島を出る時に連れて行けない制度のことです。
愛可那は本名を龍愛子と言い、島では身分の高い血筋でした。
可那は尊敬するときに使う名称で、その呼び名が名士であったことを物語っています。

 吉之介は1959年の1月に島に入り、最初は流人として扱われ孤独な毎日を送っていました。
ところが次第に島の人と打ち解けていき、吉之介の性分として藩からの米もその多くを島民に分け与えていました。
11月に愛可那を島妻に迎い入れ、1男1女を儲けています。
このころには扶持米も12石になっています。
ところが京都では寺田屋騒動が勃発し、この混乱を鎮めるために再び吉之介から声がかかります。
1861年11月には薩摩藩から呼び出され、愛可那と子供たちの将来を案じて家を建てます。
その時建てた家が、今いる「西郷南洲謫居跡」なのです。
そして、吉之介は翌1月に島を離れたのでした。

 その家は2間の畳の間で、今は資料館として子孫の手によって公開されています。
市内に住まれているということで訪問には予約が必要だったのですが、当日は運良く開いていたのでした。
奥の間には奄美での生活を支えた愛可那の生涯を記した吉之介直筆の掛け軸が飾られています。

 「西郷南洲謫居跡」を後にし、さらに北の半島の先端に位置するところまで進みます。
ここ安木屋場はソテツの群生地で、山ひとつが丸々ソテツで埋まっています。
島津藩は奄美のサトウキビをもとに造った黒砂糖を治めさせ、琉球貿易の儲けを藩政に充てていました。
島民が黒砂糖を口にすることはなく、ソテツを植えて飢えをしのいだそうです。
しかしソテツには毒があり、毒抜きを怠ると死に至るような苦労を島民は行っていたのです。
その名残が、このソテツ群生地ではないでしょうか。

 海に対する美しい自然美、そして江戸から明治に至る西郷の足跡を辿った1日でした。
「鶏飯」のだし汁の味も、忘れることのできない良い思い出となったのでした。

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