にっぽんの旅 九州 福岡 行橋

[旅の日記]

行橋の正八幡宮 

 福岡の東部、今や北九州へのベットタウンとなった行橋です。
古くは中津街道の大橋宿として栄えたところです。
そんな町を本日は散策します。

 昔の田舎の駅をイメージしてきた行橋駅ですが、見てびっくりです。
近代的な駅に生まれ変わっています。
ブラッと来て事前の知識がないまま到着しましたので、先ずは観光案内所に飛び込みます。
運よく駅の構内に案内所があり、ということは何か見て回るところがあるはずです。

 最初に訪れたのは観光案内所から勧められた「正八幡宮」です。
電車の線路伝いに行けば着くよと言われ、JR日豊本線の高架下を南に向かって歩いて行きます。
ほどなくして着いたのが「正八幡宮」の南の端です。
小さな朱色の欄干をもつ「はりまや橋」を渡って境内に入ると、ちょうど拝殿の脇に出てきました。
神社の始まりについては諸説ありますが、860年に国司のひとりであった文屋真人益善が宇佐宮のお告げに従い神社を建立し、これをつつしんでいただいたことが「正八幡宮」の起源であると言われています。
境内には井戸の神様を祀っていたり、丸い石が湧き出る水でずっと回っている「むすび玉」もあります。

 ここからは「舟路川」に沿って整備された「舟路川散策路」を北に歩いて、再び町の中心地に向かいます。
「舟路川」は小さな水路で、家々には個人宅に掛けられた石橋を渡って行く必要があります。
どことなく風情を感じます。
ただ、お世辞にも清い水とは言えません。

 「舟路川散策路」が切れる辺りで、1筋東に移動します。
そこには、えびす通りの市場のアーケードが設置されています。
やっと賑やかな行橋を見ることができました。
商店街を進み、屋根が切れた先に「旧百三十銀行」の建物があります。
百三十銀行行橋支店として1914年に建てられた煉瓦造りの建物です。
美しい煉瓦の建物は、東京駅や日本銀行本店を手がけた辰野金吾が設計した日本有数の建物です。
建物の仲には高い天井と銀行のカウンターが残っており、ギャラリーとして市民に開放されています。
訪れた時には、自作の筑前人形が展示されていました。

 それではここからは進路を西に変え、駅から外れて行きます。
「禅善寺」「浄蓮寺」と寺院が並び、その先には広場があります。
ここは「大橋公園」ですが、園内は雑草で覆われてしまっています。

 そしてその横に「大橋神社」があります。
大橋という名は、大橋太郎に由来します。
鎌倉時代に豊後の地頭だった大橋太郎が鎌倉に赴いた時、身に覚えない罪を着せられてしまいます。
やがて疑いが晴れ豊後に帰ることが許されたのですが、帰りに立ち寄ったこの地で厚いもてなしを受けました。
太郎はこの地を気に入り、豊後から家族を呼び寄ます。
家族とともにやって来たのは、これを知った豊後の人々です。
人が増え栄えたこの地を、大橋太郎が村を開いたことにちなんで大橋村と呼ぶようになったのです。

 ここで再び駅の方に向きを変え、町の南側にある「長峡川(ながおがわ)」を越えます。
「長峡川」河口は、かつては豊前の国内で有数の港として栄え、川の両岸には小倉藩の御蔵所や在郷商人の浜倉が並んでいました。
そのひとつである「行事飴屋」の表玄関となる「旧飴屋門」を見に行きます。
「行事飴屋」を営む玉江家は宝永年間(1700年代はじめ)に京都郡行事村を拠点として、豊前有数の豪商として栄えました。
酒屋、質屋、呉服商などにも手を広げ、その繁栄は約200年にわたって続きます。
そんな藩主が潜った「旧飴屋門」と呼ばれる御成門が、今でも残されています。

 最後に寄ったのは「貴船神社」です。
「旧飴屋門」の通りを進んだ「長峡川」沿いに建っています。
秋になれば、風鎮祭が解されるところなのです。

 春の陽気に誘われてやって来た行橋の町でした。
のんびりした時間の流れる場所でした。

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