にっぽんの旅 九州 福岡 久留米

[旅の日記]

ブリジストンとラーメンの久留米 

 本日紹介するのは福岡の久留米です。
JR鹿児島本線で久留米に行く前に、手前の鳥栖に寄ります。
JR鳥栖駅は佐賀県ですが、北に行けば福岡、南には熊本、そして西は長崎に行ける交通の要所です。
そしてここで途中下車した理由は、鳥栖駅の駅舎にあります。
木造平屋建の鳥栖駅舎で、煙突をもつ建物です。
駅舎の中央の改札口の部分には三角屋根があり、その真ん中に時計があります。
なんともレトロな感がする駅です。

 さて今回訪れる久留米は、そこから2駅先にあります。
県境が入り組んでおり、南に進んでいるのに久留米は再び福岡県になります。
新幹線の停車駅でもある久留米駅は、鳥栖駅とは対照的に近代的な姿をしています。
駅前には大きな時計がありますが、これはからくり時計になっています。
郷土の偉人「からくり儀右衛門(ぎえもん)」こと田中久重の生誕200年にちなんで作成されました。
儀右衛門の「太鼓時計」をモチーフにしたもので、時間になると時計盤が回転し儀右衛門人形が現れます。

 駅前駐車場のところには大きなタイヤを飾っています。
建設・鉱山車両で使う直径4mの世界最大のタイヤです。
そうここ久留米は、タイヤや自転車で有名なブリジストンの発祥の地なのです。

 そして今晩の宿はこの駅前のホテルなのですが、久留米に行ってみて判ったことがあります。
宿のある西鉄久留米駅は、JR久留米駅から1km離れたところです。
早速そちらに移動して、チェックインを済ませます。
実は既に夕食を済ませていたのですが、せっかく久留米に来たので是非食べたいものがあります。
それは「久留米ラーメン」で、これこそが有名な博多のラーメンのルーツです。
1937年西鉄久留米駅前の屋台「南京千両」が出した、支那そばと長崎ちゃんぽんの豚骨スープからヒントを得たものだといわれています。
個人的には博多ラーメンよりこの久留米ラーメンの方が好きで、腹も満たし明日の久留米散策に備えたのでした。

     

 翌朝は西鉄久留米駅前から、散策を開始します。
まず向かったの、「石橋文化センター」です。
1956年に株式会社ブリヂストンの創業者である石橋正二郎が郷土久留米市に寄贈した施設です。
美術館や音楽ホール、そして石橋正二郎記念館があります。
そしてそこには広大な庭園があり、ここを訪れてみたかったのです。
中に入ると正面に「ペリカン噴水」があります。
そしてこの時期はバラが見ごろとあって、バラ園にはずらりとバラが咲いています。
また通路脇にはアジサイも満開です。
ほかにもツバキ園や日本庭園があり、ここに来ただけでも十分に楽しむことができます。

 公園の一番奥は創造の森ゾーンとなっています。
ここには、坂本繁二郎の旧アトリエがあります。
坂本繁二郎は久留米が生んだ画家です。
久留米藩の中級武士をしていた金三郎mの子として、1882年に繁二郎が生まれます。
長男で家長となる麟太郎が京都第三高等学校に進学したため、二男の繁二郎は進学をあきらめざるをえず画作としての時を過ごしました。
図画代用教員となりますが、同郷の青木繁の画風に瞑せられて上京し小山正太郎の不同舎に入ります。
さらにはフランスに渡りシャルル・ゲランにのもと、印象派の作品に触れることになります。
久留米に帰ってきた繁二郎は、福岡県八女の梅野宅の隣地にアトリエを建立し、それがここに移築し残されています。

 それでは「石橋文化センター」を後にして、「久留米市中央公園」を歩いてみます。
陸上競技場、野球場、テニスコート、プールや鳥類センターなどが入った、広大な公園です。
「五穀神社」の鳥居を潜り、公園内に入っていきます。
少し見ごろを過ぎてしまったハナショウブの池があります。
木々の先には芝生が敷き詰められた公園があります。
中央には石を積み上げ水が流れる巨大なオブジェが配置されています。

 その公園を抜け、西側の寺町に向かいます。
途中で西鉄の線路を潜っていきます。
そういえばこの路線は大宰府に行くために、過去に乗ったことがあることを思い出しました。
櫛原駅近くの道路が線路と同じ高さになったところで、懐かしい西鉄の車両を眺めます。

 寺町はそこから通りを1つ隔てた西側に広がっています。
名前が示す通り、何軒もの寺と墓がひしめく町です。
久留米の中心地に残る古い町です。

 そこからは北西に向かって、黙々と歩いていきます。
途中に「櫛原記念館」があります。
石橋正二郎の旧宅で、石橋財団が教育の向上のために教育会館として提供した場所です。
別館に秩父宮殿下が泊まられるほどの、立派な建物です。
門が締まっている「櫛原記念館」は入ることなく、さらに歩いてきます。

 そして着いたのが「久留米城址」です。
室町時代後期の永正年間にこの地の土豪が篠原城と称した砦が始まりとされています。
1573年には高良山座主良寛の実弟である麟圭が城主になります。
1587年の豊臣秀吉が九州を平定時には、筑後久留米に封じられた大友宗麟の娘婿である毛利秀包によって鱗圭は殺害されました。
関ヶ原の戦いで秀包が西軍について敗れたことから、柳川城の支城として田中吉信が城主になりますが、1615年に一国一城令により廃城となります。
しかし1621年に有馬豊氏が福岡城主黒田長政の助力も得ながら久留米城を大規模に拡張します。
ここから4代に渡って有馬家が城下町を整備したのが、いまの久留米なのです。

 城内には1879年創建の「篠山神社」があります。
そしてこの真横には「筑後川」があり、悠然とした流れを眺めることができます。

 このあとはJR久留米駅に向かうのですが、朝から歩いて足が棒のようになっています。
地図を見ると、「久留米城址」の近くに久留米大学病院があります。
病院には路線バスが集まりますので、まずはそこに向かい無事路線バスに乗り込んだのでした。

 
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