にっぽんの旅 近畿 京都 小倉

[旅の日記]

八幡と小倉 

 福岡は北九州に来ています。
そして降りた駅は、JRスペースワールド駅です。
何とモダンな駅名なのでしょう。
アポロ計画の次に行われた宇宙船スペースシャトルですが、その船体が飾られたアミューズメントパーク「スペースワールド」の最寄駅です。

 駅を降りて、まずは「スペースワールド」正面口まで歩いて行きます。
あいにくの悪天候で「スペースワールド」へ向かう人はいません。
「スペースワールド」の正面口から道を越えて地下道を潜って行ったところに、本日ひとつ目の目的地があります。
世界遺産にも登録されている「官営八幡製鐵所」です。
そういえば駅を降りた時から、歩いて来たところとは反対の方向にも、大きな高炉が見えていたのでした。

 現在操業中の工場だけあって、中に入って行くことはできません。
日曜日なら構内見学ができるツアーがあるようですが、旅行会社に申し込まなければなりません。
ただし、世界遺産に選ばれたことにより展望デッキが整備され、遠巻きにデッキから眺めることにします。
ここから見ると、貨物線の線路越しに本事務所を眺めることができます。

 1858年に大島高任が岩手県釜石で鉄鉱石を用いた高炉による出銑に成功したことが、日本の近代製鉄の始まりです。
1880年にはイギリスの技術による官営製鐵所を建設しますが、出銑への道のりは長いものでした。
その後の日清戦争を契機として、鋼を生産するために近代製鉄所を設立する機運が高まってきます。
近代製鉄所には、交通の便が良くて燃料の石炭が確保できるところが要求されます。
筑豊炭田に隣接していた八幡は絶好の立地条件だったこともあって、1897年には製鐵所の設置が決まります。
その担当になり大役を任された大島道太郎は、製鐵所の設計から建設までをドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ社に依頼し、1901年には火入れまでにこぎつけます。
しかし当初はトラブルの連続で、思い通りの生産はできなかったようです。
日露戦争勃発時には、さらに鉄鋼の需要が高まり、一旦は諦められた高炉に再度火入れが行われたものの、またも失敗が続きます。
その解決を任された野呂景義はひとつひとつ原因を解明し、高炉の改良を行うなどして生産の不具合をつぶしていきます。
その甲斐もあって1904年には本格的なコークス炉が完成し、日本の近代産業が幕開くこととなったのです。

 教科書でしか知らない「官営八幡製鐵所」ですが、こうして身近なものになってきました。
遠くから眺めるだけですが、何故か納得したのでした。

 さて、ここから2駅東の小倉に向かいます。
小倉駅は大きな駅で、駅ビルからはモノレールも走っています。
その小倉駅から「京町銀天街」のアーケードを、西小倉駅の方向に歩いて行きます。
商店街を越えると、紫川に架かる「常盤橋」を渡ります。
通商「木の端」で、それ以外にも紫川には「火の橋」「石の橋」「水鳥の橋」「太陽の橋」「鉄の橋」など、橋には様々な相性が付けられています。
近くには「伊能忠敬顕彰碑」もあります。
日本全国を自分の足で歩いて測量を進め、国内初の地図を造った人です。
九州の地図作りの第1歩が、この地点からだと言われています。

 「常盤橋」を渡りきり、1筋南の往来の激しい勝山街道沿いには、木造の洋館があります。
ここは「小倉県庁跡」で、1871年から1876年までの間、豊前一帯を小倉県と呼び小倉に県庁舎を置いたところです。
1896年に小倉県が福岡県に合併された後は、警察署として使用されていました。

 ここから南下すると、堀の中に「小倉城」がそびえています。
ところが右手にも城と同じように石垣の上に白い漆喰で固められた壁をもつ建物があります。
「八坂神社」で、1617年に小倉藩主細川忠興が小倉藩の総鎮守として、建てた祇園社です。
雄大な東櫻門を潜ると、中には木の香りがしそうな「八坂神社」の本殿があります。
先ほどの白壁は、境内にある参集殿だったのです。

 「八坂神社」に伝わる眼病平癒の話があります。
忠興が城外へ鷹狩りに出かけた時のことです。
小さな祠を見つけ、中のご神体をのぞき見ようと枝でこじ開けます。
ところが中から鷹が飛び出し、忠興公の目を蹴って逃げてしまいます。
神様に対する無礼のため目が見えなくなったと思った忠興は、小倉城の城外に荘厳な社を創建し2基の石造灯籠が奉納します。
すると目は治癒し、このことがもとで「八坂神社」は眼病平癒にご利益のある神社として知られるようになりました。

 それでは、いよいよ「小倉城」に入りましょう。
「小倉城」は、1569年に中国地方の毛利氏がこの地に城を築いたことから始まります。
その後は高橋鑑種や毛利勝信が居城しますが、関ヶ原合戦で東軍について功労をあげた細川忠興が入城します。
忠興は1602年に本格的に築城を始め、南蛮造の天守を持つ城の完成までには7年の歳月を要します。
城下町には商人や職人を集め、商工業を振興していきます。
その後、細川氏の熊本転封の際には、細川家と姻戚関係にある播磨国明石の小笠原忠真が、代わって入国します。
徳川家光からは九州諸大名の監視という特命を受け、小倉は九州の中心となっていきます。
小笠原忠苗の時代には、回遊式庭園も造られます。
幕末には長州藩攻略では、熊本藩とともに小倉藩は勇敢に戦いを挑んだのですが、戦意の喪失した他の九州諸藩の前で、ついに1866年に「小倉城」に自ら火を放って戦線後退を余儀なくされました。
今残る天守閣は、1959年に復元されたものです。
城の敷地内には、四年式十五糎榴弾砲も飾られています。

 そして最後に訪れるのが、「森鴎外旧居」です。
「小倉城」からは、再び紫川を越えて小倉駅側に入ります。
紫川には美しい「中の橋」(通称太陽の橋)架かっており、ここを渡って行きます。
モノレールと交差し、「森鴎外旧居」はその先の堺町公園の辺りのはずです。
この辺は歓楽街でビルの前には飲み屋の名前が入った看板が、ずらりと並んでいます。
そんな中に「森鴎外旧居」がひっそりとありました。
作家であり医者であった鴎外は、1899年に小倉の陸軍第12師団の軍医として小倉に赴任してきます。
小倉での鴎外は、洋書の翻訳や通称「小倉日記」と呼ばれる日記をつけて過ごしていました。
「小倉日記」には、小倉にいた時の鴎外の様子が克明に書かれています。

 今回は訪れることができませんでしたが、松本清張も小倉を代表する作家で、「小倉城」のそばには「松本清張記念館」もあります。
黒澤映画にもなった「点と線」「ゼロの焦点」は、大好きな小説のうちのひとつなのです。

 
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