にっぽんの旅 近畿 和歌山 湯浅

[旅の日記]

醤油の町 湯浅 

 本日はJR紀勢本線の「湯浅」駅周辺の散策です。
熊野三山の通り道であった湯浅は、熊野街道の重要な宿駅でした。
当時は、海が陸地まで入り込み、水(ゆ)が浅く広がっていたことから、「ゆあさ」の名がついたと言われています。
豊かな漁場を持ち、醤油と金山寺味噌の醸造で栄えた湯浅です。

 1927年に建てられたJR湯浅駅は、木造で瓦屋根の趣のある建物です。
今では廃線となった有田鐡道の湯浅駅と区別するために、JR(昔の国鉄紀勢西線)を紀伊湯浅駅と呼んでいました。
駅前には小型のバスとタクシーが回ることのできる小さなロータリーがあるほかは、2〜3件の商店があるだけのひっそりとした駅です。
ここから北に向かって歩いて行きます。

 駅の北側は整備された2車線道路が走っており、観光案内場や店が並んでいます。
果物屋では、この地方で生産が盛んなみかんをはじめとするかんきつ類が、店先にうず高く積み上げられています。
「文平の像」は、1669年に湯浅で生まれた紀之国屋文左衛門の像で、幼名を「文平」と言っていました。
文左衛門は、紀州みかんの輸送や木材取引で成功し、巨万の財を築いた湯浅を代表する人物です。

 それでは、1本西側の通りに進んでみます。
車1台が何とか通れる広さの通りがあります。これが熊野古道です。
京から大坂を経て熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ続く街道で、紀伊路とも呼ばれています。
平安時代には、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになると、法皇・上皇などの皇族や貴族の参詣が相次ぐようになり、それとともに宿場町である湯浅が栄えてきます。
そして室町時代になると、上皇や貴族に代わって武士や庶民の参詣が盛んになってくるのです。

 道町通りと寺町道りの交差点に、「立石の道標」が残っています。
熊野古道と高野山への道の分岐点で、北が「きみゐでら」(紀三井寺)、北面には「すぐ熊野道」(熊野道は真直ぐ)、そして南面には「いせかうや右」(伊勢・高野山は右)の文字が刻まれています。
そして道標の反対側には、立石茶屋があります。
熊野古道の至る所に、古道を示す行灯が備わっています。

 西に進んだところにある「深専寺」があり、そこには地震と津波の碑が建っています。
1854年の6月14日に起こった地震では、翌日までに30回を超える地震が続き、ついには11月4日そして翌5日に大地震が襲います。
いわゆる安政南海地震で、これに安政東海地震、そして翌年の安政江戸地震を含めて、一般的には「安政の大地震」と呼ばれています。
海が山のごとくの盛り上がり、人々が逃げ回ったことが記録されています。
1707年に遠州灘沖から紀伊半島沖を震源として発生した「宝永地震」から再び発生した地震の戒めとして、この碑を残したということです。
そしてそこには、井戸の水の減りと濁りがあった時には津波に気を付けるように、との教えが書かれているのです。

 それでは1筋西側の鍛冶町通りに移りましょう。
鍛冶町通りにも、昔の街並みが広がっています。
そのうちのひとつ、古民家を利用した「おもちゃ博物館」では、江戸時代から近年までの約5,000点ものおもちゃが展示されています。

 「岡正」は江戸末期頃に建築された町家で、酒屋の屋号です。
その向かいには、「麹屋」の文字が書かれた「手作り行灯・麹資料館」があります。
1878年の母屋は、かつては醸造に用いる麹を製造・販売していました。
今では、行灯と古民具の展示をしています。

 さらに進むと「旧栖原家住宅」があります。
フジイチという明治時代から醤油醸造を行っていたところです。
醤油で財を成した栖原家は大きな屋敷を構え、数々の調度品を揃えていました。
当時の醤油樽や醤油瓶が飾られています。
そして面白いものも残っています。
むっとした顔の人形の焼き物はこの地方のもので、湯浅人形と呼ばれるものです。

 東西に走る北町通りを歩いて行きます。
北町通りと南北に走る3本の通り(鍛冶町通り、中町通り、浜町通り)は、古い街並みが続く重要伝統的建造物保存地区となっています。

 「加納家」は、大正時代に造られた建築物です。
その時代に流行った黒漆喰仕上げの2階は、袖壁や木格子の窓が配置されています。

 その先の「金山寺味噌」ののれんが掲げられている連子格子の建物が、「太田久助吟製」です。
江戸時代末期から戦前までは、醤油醸造も行っていました。
こちらは、1904年の建物です。

 「湯浅醤油職人蔵」では、醤油を作るための樽や道具が展示されています。
というより蔵の中に置かれており、自由に見ることができます。
鎌倉時代に、紀州由良の興国寺の僧であった心地覚心(法燈円明国師)が、中国で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の醤油の原型だとされています。
醤油で有名な千葉県の銚子、野田、香川県の小豆島、兵庫県の龍野など数多くありますが、日本の醤油の発祥の地はここ湯浅なのです。

 さて「角長」があります。
醤油の匂いが、辺り一面に立ち込めています。
「角長」は、加納長兵衛家が興し1842年から続く手づくり醤油、湯浅たまりの製造・販売所です。
実は本日のお目当ては、ここだったのです。
美味しい醤油で、美味しい刺身を食べてみたい、ただそれだけの欲求で、わざわざ湯浅まで来てしまったと言っても過言ではありません。
溜まり醤油と濁り醤油の違いを聞きながら、濃口の湯浅醤油をじっくり品定めをしていきます。
今から晩の食事が楽しみです。
先ほど見てきた「湯浅醤油職人蔵」も、実は「角長」で使っていた道具を並べたところでした。
また、近くには「醤油資料館」も併設しています。

 「角長」の店の裏手には、「大仙掘」があります。
こじんまりとした「北恵比須神社」を横手に眺めながら、北町通りと平行に走る「大仙掘」に向かいます。
ここでは、蔵が立ち並ぶ昔ながらの街の風景を見ることができます。
ここは、醤油の材料や商品を積み下ろしをしていた内港です。
醤油船が行き来した当時の活気にあふれた様子を、感じさせてくれます。

 ここで再び「醤油資料館」のある浜町通りに戻り、1筋東を歩きます。
菱形に型取られた綺麗な外壁に気付きます。 ここは「甚風呂」で、江戸時代から昭和の終わりまで、長きにわたり営業していたお風呂屋さんです。
浜町通りと中町通りの細い路地を入って行かなければならず、見逃してしまいそうです。
確かに正面には風呂屋を示す灯篭があります。
銭湯跡歴史資料館となっていますので、立ち寄ってみます。

 内部は当時のまま保存されており、往年の生活様式を伝える古民具が並んでいます。
手廻し式の電話機や、100年間動き続けている古時計など。興味の湧くものがたくさんあります。
もちろん風呂屋ですので、広い風呂釜もあります。
ブリキのたらいは、ここで見ることのできる珍しいものです。

 浜町通りに面する「旧赤桐家」は、最大級の規模を誇る町屋です。
明治時代の建築で、もともとは醤油醸造家でした。
5間以上の長さの虫籠窓と起くり屋根が特徴的です。

 一方、中町通りの「木下家」は、江戸後期の建築と考えられています。
濃厚な表構え主屋は、当時の広大な敷地を有していた醤油醸造家の居宅です。

 そして最後の楽しみは、海に恵まれたこの地方の魚です。
今日はここでよく食べられているしらず丼を目指して、駅前の店に入ります。
釜揚げしらず丼は、しらすとみかんのはちみつなどで造られたたれが掛かっています。
丼を味わいなければと思いながらも、ついつい掛けこんでしまい、あっという間に平らげてしまいました。

 さて旧市街も歩き終えて、再び「湯浅駅」に戻ってきました。
駅の東側にほどなく歩いたところに、「湯浅醤油」の工場があります。
醤油や味噌も売られているということなの、覗いてみます。
工場には樽で醤油が造られています。
昔の樽が見学コースの途中にも置かれています。
見学の最後が売店に誘導される、お決まりのパターンです。
その思惑にまんまとはまり「醤油ソフト」を食べてしまうのでした。

 こうして湯浅の街を眺めてきましたが、意外に小さな街で地図を見て歩いて行くと、行き過ぎて引き戻すこともしばしば。
多分、道を知り尽くした人の3倍は歩いたのではないでしょうか。
春の陽気にも誘われて、気持ちの良い1日でした。

 
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