にっぽんの旅 近畿 和歌山 友ヶ島

[旅の日記]

友ヶ島 

 大阪と和歌山の県境、加太から始まる本日の旅です。
天気が悪く、本日の旅を最終的に決めたのはその日の朝。
大慌てで出かけ、ここ加太にやってきました。
南海加太線の加太駅に着いたのは10:50。
予定では11:00の加太港出発、友ヶ島行の船に乗るはずだったのですが、加太駅から加太港まではそんなに簡単には行けないことを、ここに来て初めて知りました。
歩きながら結局加太港に着いた時には港から船が出たところで、さて次の船はと言うと2時間後だったのです。

仕方がないので、本日の早々の昼食をとることにしました。
加太に来たからには海のものを食べねはと、ちらし寿司やら天ぷらやらを食べてしまい、食後は満腹感でもう帰っても悔いはないような錯覚に陥ってしまいました。
これはいけないと気持ちを奮い立たせ、加太港で再度の乗船を試みたのでした。

 友ヶ島への船「ともがしま号」は、本日までが夏ダイヤの運航で臨時便が出ていました。
これがなければ、さらに待たされることになっていたのかも知れません。
友ヶ島へは、途中横波を受けながらも船は力強く走っていきます。
右手に「地の島」を望みながら、約20分の船旅です。

 友ヶ島の野菜浦桟橋に着いたら、まず案内センターで地図を入手します。
友ヶ島は、夏季だけ宿泊施設が稼働しますが、基本的には無人の島です。
明治時代から第二次世界大戦時までは、軍事要塞として使用されており、今もその施設を見ることができます。
まずは野菜浦桟橋から西に向かって歩き出します。
ほどなく現れる「海の家」の前には、石が敷き詰められた海岸線が広がります。
ここはヤドカリの宝庫。
石を持ち上げると、その瞬間に無数の貝殻が動き出します。
ついつい童心に戻り、ヤドカリ採りで時間を費やしてしまいました。
さらに西に歩き、友ヶ島の西の端である第2砲台跡を目指します。

 「富士屋別館」という民宿が目印となり、その西にはレンガを積上げた第2砲台跡が昔のままで残されています。
上部を蔦で覆われた建物の真っ赤なレンガの色が映えて見えます。
そしてこの場所は、淡路島とは目と鼻の先の距離です。
こんなところに砲台跡があるなんて、戦争の記憶のない現代では考えられないような光景です。

 さてその少し南側の小高い丘の上に、友ヶ島灯台が建っています。
ここは明治5年にできた洋風灯台で、日本で8番目に造られたものなのです。
現役の灯台であり、光度190万カンデラは全国2位の明るさを誇っています。
そして灯台の下の地面をくり抜いて造られたのが、第1砲台跡です。
今は柵をされ近づくことができませんが、日陰にひっそりとたたずむその要塞は、苦い戦争をするために造られた負の遺産なのです。

 灯台を下り、池尻広場に出ます。
ここは芝生が敷き詰められた広場になっています。
近くに蛇ヶ池もあり、海岸以外で唯一見晴らしのいい場所なのです。
そばには、いくつかのグループがキャンプを張っていました。
そしてその南の海側には「孝助松の海岸」が広がります。
三角形をした巨大な岩とその周りの潮だまりが絶景で、太平洋のはるかかなたまで望むことができます。
こここそが、ヤドカリ採りの絶好の場所だったでしょう。
すでにヤドカリと海水がはいっている重い荷物を抱えていましたので、ここはおとなしくしておくことにします。

 ここからは友ヶ島で最大の砲台である第3砲台跡に向かうのですが、ここからは山道です。
空からは灼熱の太陽の光が降り注ぎ、そして目の前はどこまでも続く山道が、ペットボトルの水を減らしていくのです。
飲み物といっても、この島では限られた場所でしか手に入らないのです。
海水入りのヤドカリが、肩に重くのしかかってきます。
でも好奇心は旺盛で、途中で見かけた「旧海軍調音所跡」の看板に引き寄せられて、本来とは違う方向に寄り道をしてしまいました。
海軍聴音所とは、海底の音を聞き分け敵の潜水艦の侵入をいち早く察知するための施設です。
現在のたたずまいはと言えば、ちょっとした心霊スポットのような感じです。
外から見れば石を積み上げたような建物で、中は積上げたレンガと漆喰が見られ、窓から入る光が射すところ以外は薄暗い小屋です。
これまで見てきた砲台の建物に較べれば、目立たずひっそりとした隠れた軍事施設であることが判ります。

 さて寄り道をした時間を取り戻すために、さらに馬力を入れて坂道を登らなければなりません。
汗だくになったそのとき、木々の合間から視界が開け、山頂の「タカノス山展望台」に着きました。
そして、目指す砲台跡がここにあります。
全部で6つある砲台跡のうち、ここの第3砲台跡が最大のものです。
今は水が溜まり池になっていることろがありますが、昔の大砲の据え付けた後でその砲座の直径は3.5mの大きさです。
全部で8つの砲座が、紀淡海峡防衛のために据付けられました。
その先を進むと、そこにはレンガ造りの立派な建物があり、当時弾薬庫して利用されていたものです。
また近くには瓦葺の家も残されており、駐屯将兵が生活した宿舎だったそうです。

 島の西部を一通り見終えたところで、帰りの最終便の船の時間になってしまいました。
と言うより、この暑さではこれ以上歩けないというのが本音でしょう。
下山して、もと来た野菜蒲桟橋に向かったのでした。

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