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[旅の日記]

真田幸村ゆかりの九度山 

 本日は、和歌山県九度山の散策です。
高野山の麓の町で、真田信繁(幸村)ゆかりの地としても有名なところです。

 南海高野線に乗り、高野山方面に進みます。
途中の橋本駅から先は単線になり、車両も切り離されて半分の長さになります。
山すその曲がりくねった線路を、電車は力強く走ります。
三角屋根の九度山駅は、静かな田舎の駅です。

 町を歩くと、ほとんどの家の軒先に兜を模った飾りつけがされています。
どうやら、真田信繁(幸村)の兜をイメージしたもののようです。
その様は、夏場に風鈴が飾ってあるかのようで、風になびいています。
幸村の功績を称えるためで、毎年春には「真田まつり」が実施されます。

 そんな中、この町に幸村とは違った側面を持っているところがありますので、訪れてみます。
「旧萱野家」は、大石順教尼の記念館になっています。
本名 大石よねは、1888年に大阪の道頓堀で生まれます。
堀江のお茶屋「山梅楼」の芸妓として働き、「山梅楼」の主人である中川萬次郎の養女となります。
ところが17歳のときに養父の狂乱によって、刀で6人が殺傷される災難に遭遇します。
大西よねも両腕を切り落とされますが、一命をとり止めます。
世に言う「堀江六人斬り事件」です。
そんな身になりながらも、2代目三遊亭金馬の一座などに入り、巡業の旅をはじめます。
そんな時に、カナリアがくちばしを使ってひなに餌を与えているのを見て、自分でも口で文字や絵を描けることに気付きます。
1912年には日本書画家山口草平と結婚し子供を授かるものの、夫の不倫で15年後には離婚してしまいます。
そのころ、萱野正之助の知人が取り持つ縁でよねと萱野正之助は進行を深めて行きます。
尼僧を志すよねに対し萱野夫妻が菩提親となり、まずは高野山天徳寺での出家得度を勧めます。
高野山で得度を終え名を「順教」と改めた大石順教は、1936年に京都市山科の勧修寺に移住し、自分と同じ立場の身体障害者の自立を支援するための「自在会」を設立します。
そして1947年には佛光院を建立し、福祉活動にその生涯を捧げたのでした。

 「旧萱野家」を出て外を歩いていると、「真田古墳」なるものが2畳ほどの柵で囲まれたものがあります。
中を覗き込むと周りを石で囲まれた真ん中に穴が開いており、横穴式石室になってます。
発見された当初は、大阪の三光神社にある抜け穴のように大阪城まで続く「真田の抜け穴」と呼ばれていました。

 ここで、真田信繁(幸村)とはどんな人物だったのかを、おさらいしてみます。
真田信繁は、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した武将です。
1567年に甲斐国甲府に生まれ、祖父 幸綱、父 昌幸ともに武田家に仕える身でした。
その後の武田、上杉、後北条を巻込んだ第1次上田合戦へと発展します。
豊臣政権下では豊臣方に就き、小田原征伐にも参加しています。
関ヶ原の合戦では西軍として参加するものの敗北し、死罪を命じられるところを本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられるになります。
これが真田信繁と九度山との由縁なのです。
その後の1614年の大坂冬の陣では、大坂城の唯一の弱点であったとされる三の丸南側に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築き、大阪城を守り抜きます。
ところが大坂夏の陣で、兵力で圧倒的に勝る徳川勢に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社の境内でこの世を後にしたのです。

 さらに先を進むと、寺のような大きな門が現れます。
ここは「真田庵」で、真田昌幸・信繁の隠棲時代の屋敷跡です。
屋敷跡に建てられて寺には、本尊に延命子安地蔵菩薩を祀られています。
また境内には「真田庵宝物資料館」があり、鎧・兜・刀などの真田家の遺品が展示されています。

 外ではちょうど紀州みかんが実をつけています。
みかんの良い香りに誘われ気持ちよく歩いていると、面白いものに出会います。
「米金の金時像」は、高さ2mにもなる陶器製の像です。
金太郎ならぬ米金が、相撲を取ったようなしぐさをしています。
井端(南紀)荘平の作品で、瓦焼きを家業とする家に生まれました。
この地の恵まれた土に魅了され、窯を築き多くの作品を残しました。
これらは九度山焼きと呼ばれるまでになりました。

 先を進みましょう。
「松山常次郎記念館」があります。
九度山が生んだ政治家で、衆議院議員まで務めましたが、第2次世界大戦の戦犯として政治の世界を去ってしまいました。

 丹生川を越え、西へ車道と並行して走る路地を進みます。
戦争で焼け残った古い街並みが続きます。
20分も歩いたでしょうか、「慈尊院」があります。
高野山真言宗の寺院で、山号を万年山といいます。
816年に空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に、高野山参詣の要所に当たるこの地を高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所を置きます。
そして、ここを高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場としました。
「九度山」という地名は、空海の母 阿刀氏が高野山を一目見ようとやって来ましたが、当時の高野山は女人禁制で、麓にあるこの政所に滞在します。
空海はひと月に幾度となく山を下りてこの地を訪れたことから、「九度山」と呼ばれるようになったようです。
境内の多宝塔の脇には、長い石段があります。
ここを登ってみましょう。

 石段の先には、「丹生官省符神社」があります。
816年に空海によって創建されました。
赤い鳥居を潜ると、その先の拝殿があります。
その奥には、社殿3棟が連なる本殿が見え隠れします。
そして「慈尊院」と同じく「丹生官省符神社」も「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界遺産に指定されています。

 その奥に進むと、「勝利寺」へ続く長い石段が控えています。
空海が厄除けのために十一面観音を奉納されたことから、厄除観音として信仰されています。
高野山を開創される以前の創建と伝えられています。
正面に十一面厄除観音菩薩の本尊を祀る観音堂が、その右手には地蔵堂が並んでいます。
「紙遊苑」も敷地内にあり、九度山の紙すきの技術が紹介されています。
以前勝利寺の住職が住まわれていた建物を利用した施設で、藁葺の屋根が趣があります。
後白河上皇が高野山参詣の折、宿泊されたこともあり、玄関の入り口には菊の紋章があります。
天井には和紙で出来た大凧が展示されています。

 「勝利寺」の近くに、高野山への入り口があります。
ここから、大門までの20kmを越える山道が続きます。
道には石柱が並び、「慈尊院」から「根本大塔」まで、180本が設置されています。
道の両側には柿がなっており、柿は九度山の誇る名物のひとつです。
山道を歩いていると、道脇の草むらからボコボコとでんでん太鼓をたたくような音がします。
ひょっとして、これはマムシの合図?
突如草むらからガサガサと何者かが動く音にびくびくしながらびくびくしながら、進んだのでした。

 高野山までの道のりを行く気力はなく、引き返してきます。
九度山の町も一通り散策し終えましたので、紀ノ川を越えて北側の高野口町へ方向を変えます。
紀ノ川に掛かる九度山橋からは、川の雄大な流れを臨むことができます。

 そこから1km、「名古曽蛭子神社」があります。
通りからは細い路地を進むため目立ちにくいですが、一旦中に入ると車が通れる幅の通りに出ます。
約300年前に創建されたと伝えられている神社で、1月の「十日えびす」では多くの人で賑わいます。

 「龍の井戸」は、路地の脇に突然現れる少し判りにくい場所にあります。
葛城の峰入りの際には、この「瀧の井戸」で七日間水垢離をして、高野山へ帰山すると伝えられています。
湧き水が絶えることがなく、「紀の国名水」にも選ばれています。

 「龍の井戸」から南に下ったところには、戦前の街並みを再現したような場所があります。
「ババタレ坂」といい、その昔高野口駅前が開設された頃、この地は高野山参拝の玄関口として賑わっていました。
材木を運んでいた牛がこの坂で力み糞をしたことから、そう呼ばれるようになりました。
街並みに当時の面影が残ります。

 その西には、「前田邸」があります。
前田家は江戸時代から薬種商を営み、庄屋を勤めた事もある旧家です。
塀で囲まれた広い屋敷で、旧大和街道と高野参詣道の交叉する位置にあります。
主屋、書院、土蔵を合わせ持つ町屋として、現在に残る貴重な建物です。

 高野口駅近くには、「地蔵寺」があります。
そして駅前には「葛城館」という旅館が残っています。
南海電車が開通するまで高野口が高野山参拝の拠点であり、その頃に賑わった木造3階建ての旅館です。
手すきガラス張りの美しい建物ですが、訪れた時には2階と3階は雨戸が閉ざされていました。
建物は明治後期建築のものです。

 本日は、真田信繁(幸村)の足跡を追い求めた1日でした。
「高野口駅」からJR和歌山線に乗り、帰路に就いたのでした。

 
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