にっぽんの旅 近畿 和歌山 御坊

[旅の日記]

紀州鉄道が走る御坊 

 和歌山県御坊、ここが今日の散策の場所です。
3月の声がすぐそこで聞かれる冬の最後ですが、相変わらず寒い風が吹き荒れています。

 御坊は、聖武天皇の母である宮子姫(藤原宮子)の誕生の地です。
JR御坊駅から10分ほど離れた田んぼの真ん中に、宮子姫の像がポツンと建っています。
海女の夫婦が授かった宮子には、なかなか髪の毛が生えてきません。
そんなとき母親が海に潜っていると、海底に光輝く観音様を見付けます。
海から持ち帰った観音様にお祀りし続けていると、宮子に黒髪が生え始めます。
ある日、藤原不比等の屋敷の軒に宮子の長いつやのある髪の毛を使ってツバメが巣を作ってしまいます。
不比等は巣から垂れ下がる長い黒髪の主を探しだし、宮子を養女に迎え入れます。
後に宮子は文武天皇の后となり、奈良の東大寺を建立した聖武天皇の母となったと言うことです。
そんな宮子姫物語が、語り継がれています。

 さて御坊に変わったお好み焼きがあることを聞き、食べに行きます。
再び駅に戻り、そこから15分くらい歩いたところに、その店はあります。
5卓くらいのテーブルが置かれた店ですが、平日と言うのに順番待ちの人で賑わっています。
ここで食べられる「せち焼き」とは、焼きそばを小麦粉を使わず卵だけで固めてお好み焼き風にしたものです。
卵をかき混ぜる様を、無茶苦茶にするという御坊弁から、名前がついています。
ソースをかけ、カツオと青海苔をまぶすので、味はお好み焼き(そばが入っているのでモダン焼き)そのものです。
鉄板の上の焼かれた「せち焼き」をコテで切り分けて口へ運びます。
身体が温まる一品です。

 店の前の通りを南に歩いて行きましょう。
20分くらい歩くと、踏切と交差します。
これが、「紀州鉄道」です。
実は今回の御坊訪問の最大の目的が、この「紀州鉄道」に乗ることなのです。
はやる心を抑えて、「紀州鉄道」の終点の西御坊駅までを歩きます。
そして近くの紀伊御坊駅には、キハ603の車両が今は使わずに置かれています。

 紀伊御坊駅辺りから、通りは賑やかになって行きます。
地方の商店街がシャッター商店街になっている中、ここには明るさがあります。
通りの両側には、個人の店が並んでいます。
大浜通りを交差するところで、東に進路を変え西御坊まで町の中を巡って行きます。

 「正宗屋酒店」は、昭和初期の鉄筋コンクリート造りの建物です。
酒屋でありながらモダンな造りに、びっくりさせられます。
「ウエノヤマ風呂神具店」の向かいの「堀口金物店」も比較的モダンな姿をしていますが、木造の通りにマッチしています。

 「中松金物店」は大正時代の建物で、地下には防空壕が残されているとのことです。
その先の「薗徹薬局]は、御坊で初めての薬剤師を生み出した薬局です。
店の正面の多くは改装されて新しくなっていますが、北側には格子窓が残され、窓の上には珍しい木製の看板が並んでします。
「命の母」や「タムシチンキ」の文字が読み取れます。
江戸末期の平屋です。

 ここに西に延びる西町の通りがあります。
目を引く2階建ての建物は「旧中川家」で、代々材木商として栄えました。
複数の屋根をもち複雑な向きに入り組んだ造りが、凝った建築設計を裏付けています。
まるで料亭の入り口に来たような感覚にさせられます。

 「有田屋」は和菓子の製造・販売をしています。
庇下あるしぶき除けと呼ばれる雨除けの板が特徴です。
向かいの「はやし砂糖店」もこれまた古風な建物で、通りの景観を形作っています。

 ここに「本願寺日高別院」があります。
1528年に摂津国江口で三好長慶に敗れた湯川直光は、山科本願寺の助けで小松原館に帰還できます。
そのことを感謝し、美浜町吉原に一堂を建立し、次男の湯川信春を住職とし、吉原坊舎と称します。
1585年の豊臣秀吉の紀州征伐により、吉原坊舎と湯川氏の亀山城は焼失しますが、薗浦の椿原に仮堂の薗坊舎を建てます。
そして1595年に鷺森御坊の別院として現在の地に移した薗坊舎を御坊舎と呼び、この地方も御坊と呼ばれるようになります。
以降、門徒を中心に町場が形成され、日高地方の商業の中心になっていきます。
いまでは境内が幼稚園の園庭になっています。

 蝋燭問屋の「志賀屋川瀬家」は、江戸時代の建物です。
座敷の窓には全面に格子が覆い、落ち着きのあるたたずまをもっています。
「岸野酒造本家」では、大正時代の店舗です。
奥の敷地に酒蔵があり、煉瓦造りの煙突も残っています。

 それでは1筋西側に目を向けましょう。
御坊で最古を誇る民家があり、今も残っています。

 通り沿いに、地蔵堂があります。
「茶免の地蔵堂」では延命地蔵尊が祀られていて、地元の人が詣りに来ています。
もともとは少し北の下川の川辺にあったものを、この場所に移築したものです。

 その向かいには「野尻醤油製造元」があり、丸大豆醤油が並んでいます。
店の脇から西に向かって伸びる道を「小竹八幡神社」へ進みます。
途中に「巽邸」があります。
玄関のある和風の建物に白い洋館がつながった、和洋折衷のものです。

 「小竹八幡神社」は、旧御坊町唯一の神社です。
1585年の豊臣秀吉の紀州征伐で戦乱に巻き込まれ焼失してしまいましたが、1678年に現在地に遷宮されています。
日本書紀にも記録がある由緒正しい神社です。
聞くところによると、神功皇后が忍熊王を攻めるために小竹の宮に入ると、夜のような暗さが何日も続きます。
小竹八幡神社の神官である小竹祝(しののはふり)と丹生都比賣神社の神官である天野祝(あまののはふり)という、仲の良い神官がいました。
ところが、小竹祝が病死してしまいます。
これを悲しんだ天野祝が、小竹祝のなきがらのそばで亡くなり、一緒に葬ったのだということです。
改めて墓を開けて棺に納め直し、別々に葬ると昼が戻ったという言い伝えがあります。

 その北側には、赤色の窓格子がきれいな江戸時代からの建物があります。
「堀河屋野村」で、味噌や醤油を作っています。
廻船問屋だったのですが、得意先への手みやげとして径山寺味噌や醤油を持って行ったのが始まりです。
それ以降本業として醤油作りをしたのが、三ツ星醤油なのです。

 御坊の街を一通り回り、やってきたのは西御坊駅です。
ここは「紀州鉄道」の終着駅です。
造酒屋の田淵栄次郎が御坊駅と御坊町駅(現在の紀伊御坊駅)を結ぶ御坊臨港鉄道を、1931年に開業します。
その後、松原口駅(現在の西御坊駅)、日高川駅間と徐々に路線を延長していきます。
営業状態は良くなく、毎年欠損を繰り返してきます。
1953年には紀州大水害によって日高川が氾濫し、全線が冠水してしまいます。
一時は客足の増加も見られましたが、貨物の減少によって再び会社は窮地に立たされます。
そして1973年に不動産業者に鉄道事業が買収され、「紀州鉄道」が誕生することとなりました。
1983年には西御坊駅より先の日高川駅までの路線が廃線になりました。
路線跡地には今も線路が残っており、当時の面影を見ることができます。
また西御坊駅でも枕木を杭にして行き止まりにしている簡単なもので、いつでも先に進めそうな様子です。

 かつての車両はさきほど紀伊御坊駅で見てきましたが、いまの「紀州鉄道」に乗り込んでみます。
通常は車台に左右合わせて4輪、1両で8輪の車輪をもつのですが、この車体には半分の数しか車輪がありません。
横から見ると前と後ろに1輪ずつの車輪しか持たない、車のようなシンプルな構造です。
この構造の車体は、現在ではここ「紀州鉄道」だけになってしまいました。
まるでバスがレールの上を走っているかのようです。
いよいよ列車が走り出します。
ワンマンの列車は、運転手が前に1名乗っているだけです。
そしてこの時は客も私1名のために、列車は発車します。
単線のレールの上を、ゆっくりと列車は走り始めます。
スピードはのろのろですが車体は大きく揺れ、ローカル線の醍醐味を十分に味わせてくれます。
草の生える線路を、列車はガタンゴトンと進みます。
そして着いたのが、JR御坊駅です。
なんと0番線が、「紀州鉄道」の停車場所だったんです。

 珍しい列車を訪ねて訪れた御坊の町。
古さが似合う静かな田舎町でした。

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