にっぽんの旅 近畿 滋賀 水口

[旅の日記]

東海道 水口宿 

 本日は滋賀県の水口に来ています。
貴生川から近江鉄道に乗ります。
磁気コーティングのされていない分厚い紙の切符に、切符切りで検札です。
自動改札やICカードの時代に、50年ほど前に戻ったような懐かしさを感じます。
車両は西武鉄道のお古で、どこかで見たことがあるものばかりです。
電車は最初の駅の「水口城南駅」で降ります。

 駅を降りて最初に立ち寄ったのは、「水口歴史民俗資料館」です。
踏切を渡り、駅の改札とは反対側にあります。
史料館を入ると、水口曳山祭で使う巨大な曳山が最初に展示されています。
その迫力に圧倒されます。
その奥には、それはち密な細い木々を編んで造られた細木細工が飾られています。
先ほどの曳山とは対照的で、この地方の民芸品です。
古文書、焼物など、水口の歴史を知る展示物が並んでいます。

 再び駅側に戻ります。
ここから「水口城」を目指して歩きます。
ところが5分くらい歩くと、堀の中の石垣で守られた「水口城」が見えてきます。
再建された城の「水口城資料館」に入ってみます。
関ヶ原の戦いで徳川氏の直轄地となった水口は、東海道五十三次の50番目の宿場として指定されました。
徳川の京都への上洛の際の宿泊地となっていましたが、3代将軍徳川家光が1634年に水口に宿泊のために築いた城が「水口城」です。
二条城の御殿を小さくしたような豪華な造りです。
1682年に加藤明友が2万石で入城し、ここに水口藩が成立しました。
水口の町も、単なる宿場町から城下町へと整備されていきます。
歴代水口藩主は「水口城」を幕府から借りた城として大切に管理し、藩政は二の丸で行うなど明治維新で廃城となるまで本丸御殿は一切使用されなかったということです。

 それではここで昼食とします。
水口の名物でもある「スヤキ」を食べに行きます。
「スヤキ」とは、麺にもやしを入れて焼いただけのものです。
これにソースとコショウを自分で味付けして食べます。
単純なだけに焼きそばの麺と甘めのウスターソースの味が引き立ち、懐かしさを覚えます。
手ごろな値段も相まって、どこか癖になる味です。

 ここから西に少し歩きます。
この辺は藩庁、藩主御殿や藩校があった場所ですが、今ではその面影もありません。
やがて「西見附跡」があり、ここもそれを示す看板があるだけです。
水口宿の西の端を意味します。

 さてここで折り返し、角を曲がりながら旧東海道に沿って「東見附」まで歩いてみます。
「一里塚」を示す石標の脇にあるのが、「林口五十鈴神社」です。
元伊勢の伝承地のひとつで、水口城主の加藤明友が信仰し寄進した御影石、手洗鉢が境内にあります。

 「林口五十鈴神社」から少し離れたところには「真徳寺」があります。
実はこの寺の門が、興味深いものなのです。
「水口城」の郭内に所在した家臣 蜷川屋敷の長屋門です。
寺に移築した際には大きく手を加えられたのですが、それでも当時を知る貴重なものです。

 その先が、かつて「百聞長屋」があった場所です。
何軒も棟が続いた長屋で、その場所には小さな鳥居が建っています。

 さらに歩いて行きましょう。
曲がり角に石が置かれています。
「水口石」と呼ばれるもので、力石として知られていました。
浮世絵師 国芳の錦絵にも登場していたものです。
東海道の旅人が、ここでこの石を持ち上げ力自慢をしたのでしょう。

 東海道からは一筋外れますが、「水口教会」があります。
幼稚園が併設されている教会ですが、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した建物のひとつです。
ヴォーリズはアメリカ人の建築家で、日本に西洋建築を広めました。
近江兄弟社の創立者の1人で、メンソレータムを広く普及させた実業家と言った方が判りやすいかもしれません。
「関西学院大学」や「神戸旧居留地38番館」も、彼の作品です。
英語教師として来日しますが、本来のキリスト教伝道に力を尽くし数々の伝道施設の建設を手がけました。
この「水口教会」もそのひとつです。
ヴォーリズ設計の建物は他にもありますので、先に進みます。

 ご当地グッズの販売が行われている「ひとまち街道交流館」が、左手に見えます。
そして先ほどから気になる建物があります。
先ほど訪れた「水口歴史民俗資料館」で水口の文化を知りましたが、その中に水口曳山祭がありました。
町を歩くと曳山小屋が目につきます。
町毎に所有する曳山を、皆で大切にしている様子が判ります。

 やがてこの先、東海道は近江鉄道の線路に交差します。
踏切の辺りが「水口石橋駅」です。
踏切を渡ると、道が3つに分かれた「三筋の辻」と呼ばれるところです。
1本の道がこの部分で3つに分かれて、平行に走ります。
城への進入を防ぐ迷路的役割を果たしたということです。
真ん中が東海道ですが、あえて北側の道を歩いてみます。
道の分かれ目には、水口曳山祭を模ったからくり時計もあります。

 「大徳寺」は「水口城」が築城されるまでの間、徳川家康が京都に上洛の際に宿泊していた場所です。
開山の叡誉住職が家康の重臣である本多平八郎の伯父だったことから、関係が深いのです。
門を潜り中に入ると、少し高くなり周りを見渡せるところがあります。
数段の石段を上ると、そこには腰かけるのに丁度よい大きさの石が置かれています。
「家康公腰掛石」で、まさに家康がくつろいでいた場所なのです。

 さらに足を進めましょう。
水口小学校の敷地内には、「旧水口図書館」が残されています。
1928年に地元の実業家 井上好三郎によって建てられた鉄筋コンクリート造2階建で、建物の北東側には塔屋が設けられています。
玄関の両脇にローマ風の円柱で飾られ、その上部にはバルコニーを有します。
当時としては画期的な西洋建築で、ここも先ほどの「水口教会」と同様にヴォーリズが設計したものです。

 さてここから三筋の真ん中の筋に移ります。
角の所に「問屋場跡」の看板があります。
東海道の宿場町として、問屋場があった跡地です。
問屋場とは次の宿場まで運ぶ馬と人足を準備したところです。
宿内の有力者が宿役人の任に就きますが、大名行列の往来に伴いその負担も大きかったようです。

 江戸時代には多いに賑わった水口宿で、この辺りは旧東海道の面影が一番残っているところです。
狭い通路の両側に昔ながらの木造の建物が残っており、今となっては田舎の静かな街並みを形作っています。
そしてその先には、一旦分かれた三筋が再び1本に合流する場所があります。
その一角は「高札場」となっており、今でも札が残されています。

 さらに歩いて行くと、道の脇に本陣跡の札を見つけることができます。
しかし建物は残されておらず、札だけが水口宿の大名を迎えた本陣があったことを伝えています。
そしてほど近いところには、旧脇本陣の建物があります。
柱に彫刻が施されており、周りの建物とは一線を画しています。

 さていよいよ水口宿の東の端にやって来ました。
「東見附跡」で、水口宿の江戸からの入口にあたります。
昔を偲んで、水口への門が整備されています。

 そして「東見附」の門の奥には山が見えます。
かつての「水口岡山城」が山上にはそびえていました。
「水口城」の前からこの地方にあった城で、羽柴秀吉の命により中村一氏が1585年に築いた城です。
甲賀郡の拠点であり、都から伊勢国へと通じる街道の要所としての水口の中心地でした。
中村一氏の後は、増田長盛、長束正家が相次いで入城しますが、1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に属し降伏ます。
城は池田長吉の手に渡りますが、廃城となります。
石垣は「水口城」築城に際して、転用されています。

 水口宿も東の端までやって来ましたので、あとは「水口石橋駅」まで戻ります。
帰りに寄ったのが、「蓮華寺」です。
開基は聖徳太子で、614年にまでさかのぼります。
そしてここを訪れた理由は、その本堂にあります。
本堂の入口の扉は「水口城」の客殿玄関が移築されたもので、曲線を描いた屋根が実に立派な造りなのです。
「水口城」がこういう形で残されているには、嬉しいことです。

 寺の前の通りには、今となっては目にすることが少なくなってしまった銭湯があります。
瓦葺きの昔ながらの建物で、男湯と女湯の入口が並びそれぞれにのれんが掛かっています。
建物の奥には銭湯をしめす高い煙突がそびえています。
思わず寄っていきたくなりますが、今日は帰らなければなりません。
駅に向かって再び歩き出します。

 「水口石橋駅」からは、貴生川行きの電車を待ちます。
陽が傾くと涼しくなってきたこの時期です。
やって来たのは「赤電」のプレートを掲げた電車です。
この電車に揺られて、2駅先の貴生川に向かったのでした。

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