にっぽんの旅 近畿 滋賀 木之本

[旅の日記]

北国街道の宿場町 木之本 

 本日の旅は、滋賀県湖北に位置する木之本です。
1583年に起こった羽柴秀吉と柴田勝家との戦いの舞台である賤ヶ岳でも有名です。
今回は残念ながら賤ヶ岳に行くことはできませんが、駅の周りを散策してみます。

 木之本は、電車では米原と敦賀のちょうど間にある町です。
JR北陸本線の木ノ本駅は、瓦ぶきの巨大で立派な駅です。
なぜ日に1000人も利用客がない駅が、こんな立派なのと思ってしまいます。
駅には木之本の特産品を並べた店が入っています。
そしてこの町に相応しい昔の駅舎が、今の駅の近くに保管されていました。

 旧市街は駅の東側に広がっています。
駅の東口正面には、100年以上も続いている私立図書館「江北図書館」があります。
隣接する余呉村出身の弁護士 杉野文彌氏は、東京で図書館に通い詰めて苦学して弁護士になりました。
杉野は自分が成功したら郷里に図書館を建て、青少年に勉学の場を与えてあげたいと思い、1902年に私設の「杉野文庫」を開設します。
1907年には、杉野の1万円の寄付金を基に地元名士の協力を得て、木之本町で念願の「江北図書館」を設立します。
図書館自体が少なかった当時、無料で本を貸し出す試みは、画期的な存在だったと言えましょう。

 「江北図書館」から旅館「鈴乃や清泉閣」などの古いたたずまいが並ぶ通りを東に2〜3分歩くと、「北国街道」に出ます。
ここに「木之本牛馬市跡」があります。
室町時代から昭和の初期まで、この地で年に2回の牛馬市が開かれていました。
近江はもとより但馬・丹波・伊勢・美濃、そして越前・若狭からも牛馬が集まり、数百頭の大規模な市となりました。
買い手は売り手の袖に手を入れ、双方が指を握って駆け引きをしていました。
「馬宿平四郎」は、織田信長に仕えていた山内一豊が名馬を購入した場所です。
ある日、一豊が一目惚れするような名馬を商人が売りに来ますが、信長に仕え始めたばかりの高価な馬を買う余裕はありません。
しかしその話を聞いた妻の千代が機転を利かせて黄金10両を差し出して、その名馬を購入することができます。
この馬に乗った一豊は信長の目にとまり、貧しくとも武士のたしなみを忘れない心構えを褒めたたえて、山内一豊の名が天下に知れ渡ることになったのです。

 ここからは「北国街道」を南に下って行きましょう。
「馬宿平四郎」の近くに「山路酒造」があります。
1532年の創業で、日本で5番目に古い酒蔵です。
店内には、清酒 北国街道が並んでいます。
この辺りは養蚕が盛んで、鍬を使った名産の桑酒やその酒を使ったケーキやクッキーも売られています。

 街道の左右には、うだつを持ち紅殻格子をまとった家々が並んでいます。
木之本は、古くから「北国街道」の交通の要衝で、宿場町として栄えたのです。

 元庄屋の「上阪五郎右衛門家」は、江戸末期の1847年に建てられた建築物です。
2階の屋根を低くした典型的な役人家屋で、1階の格子窓が美しい趣のある建物です。

 そしてその先の交差点に、「木之元地蔵尊」があります。
眼の仏様で片目をつむった蛙がお供え用に並んでいます。
眼の病気で困っているのを見て、自らが片方の目をつむることによって身代わりの願をかけたと言い伝えられています。

 7世紀後半、大坂の難波浦に金光を放つ地蔵菩薩像が漂着します。
人々は金光寺を建て、この菩薩像を祀ります。
その後、薬師寺の僧 祚蓮上人が地蔵菩薩の安住の地を求めて、地蔵を背負って北国街道を練り歩きます。
柳の木の元で休憩を取り終えいざ動こうとすると、地蔵が微動だにしません。
そこでここを地蔵菩薩の有縁の地として伽藍を建立し、祀ったのが始まりとされています。
秘仏のため拝観することはできませんが、拝殿からの参拝は許されています。
境内には地蔵菩薩像と同じ姿をした高さ6mものの地蔵大銅像のがありますので、こちらで地蔵菩薩像を確認することにします。

 その他にも、本尊の厨子の下で全長31間(56.7m)の廻廊を巡る「御戒壇巡り」があります。
日の光が入らない真っ暗の曲がりくねった廻廊を、お地蔵様の足下まで巡るのですが、真っ暗で何も見えません。
壁を触りながら進むのですが、廻廊は真っ直ぐではなく6つの角があるものですから、足が前に進みません。
結局入口すぐのところで引き返してきました。
これでは御利益がありませんよね。
そして賤ヶ岳の合戦では、秀吉が陣を置いた場所でもあるのです。

 ここから2軒ほど先に進んだところに、パン屋さんがあります。
「サラダパン」が有名な「つるや」で、木之本の名物にもなっています。
外から見ると何の変哲もない普通のコッペパンで、名前にあるようなレタスやトマトが挟まっている訳でもありません。
実は細かく刻んだたくあんをマヨネースで和えたものが、挟まっているのです。
一度食べてみたかったので、これを買っていきます。
買ったはよいのですが、どこで食べようか楽しみです。

 街道左手には「本陣薬局」があります。
ここは本陣跡で、加賀大聖寺城主の拝郷五左衛門を先祖とするところです。
江戸時代には、多くの大名が宿泊しました。
第22代竹内五左衛門は、明治に入ってから薬剤師第一号の免許を受けることになります。
2000年以上の歴史によって積み重ねられた経験と理論からなる漢方医学に基づいた、漢方の薬局です。
街道に面した壁には、薬を示す木の看板が並んでいるのが特徴です。

 さてその向かいには、大きな杉玉が吊るされた「高田酒造」があります。
「富田八郎家」で、1533年にこの地にやってきました。
木之本では造り酒屋営む傍ら、庄屋も務めてきました。
母屋は1744年建築の立派な建物です。
そしてここには、北大路魯山人も愛した清酒 七本槍があります。
七本槍とは、賤ヶ岳の合戦で活躍し秀吉を天下人へと導いた、加藤清正、福島正則、片桐且元、脇坂安治、加藤嘉明、平野長泰、糟屋武則の7名です。
七本槍のラベルは、北大路魯山人の文字です。
もちろん自分土産に買って帰ることにします。

 「高田酒造」から通りの左手先には、「明楽寺」があります。
元山城国安井にあった菩提心院を、真敬僧正が1391年にこの地に移したものです。
1471年には、蓮如上人が北国巡錫で立ち寄ったところでもあります。
「木之元地蔵尊」とは違って、静かで感慨深い寺院です。

 さらに「北国街道」を進むと、右手に洋風の建物が見えてきます。
ここが江戸時代に「問屋跡地」があった場所です。
明治に入るとここに警察署が置かれ、今残るのはその後の「滋賀銀行木之本支店」で使われていた建物です。
そして今は「きのもと交流館」としてまちづくり拠点として生まれ変わりました。
なかはホールと待合所がありますので、ここで先ほど手に入れた「サラダパン」を食すことにします。
マヨネースの甘さの中に、コリコリとしたたくあんの歯ごたえがあり、これが人気に秘訣でしょう。
あっという間にたいらげてしまったのでした。

 これから先の「北国街道」は、「白木屋」「岩根醤油醸造店」「大幸醤油店」と醤油屋が続きます。
いずれの店も古い家並みをそのまま残しており、美味しい醤油を思い起こさせます。

 この先、通りは左右に分岐します。
ここが北国街道と北国脇往還との分岐点で、石標識には「みぎ京いせみち、ひだり江戸なごや」と刻まれています。
交通の要所であり宿場町として栄えた木之本の様子が、これからも見て取れます。

 ここで木之本の街探索もここまでで、駅に向かって戻ります。
その途中、通りからは目立たなく家の間の細い小路を入ったところに、「轡(くつわ)の森」があります。
児童公園になっており、中央に大きな木が生えています。
これはイヌザクラの古木で、羽柴秀吉が木之本に駆けつけた時に乗っていた馬が疲れて死んでしまった話があります。
馬を哀れに思い秀吉がむちをさして埋葬したところ、そこから芽がでて今日の大木に育ったとされています。

 駅前には、昔ながらの小さな食堂「福田屋」があります。
昼時を外して入ったにもかかわらず店の中はいっぱいで、唯一空いていた席に座ります。
鍋焼きうどんが有名で、ここで冷えた身体を温めます。
細めのうどんと絶品の薄口の出汁に感動したのでした。

 そして、いいものを見付けました。
「でっち羊羹」は、丁稚が奉公先から帰郷する際に土産として持ち帰ったことから、この名前がついたと言われています。
包まれた竹の葉の筋がついた。素朴な味です。
そして何よりも値段が手ごろなことは財布に優しく、買って帰ることにします。

 特別に何があるわけでもない木之本ですが、何故か心温まる木之本の街だったのでした。

   
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