にっぽんの旅 近畿 滋賀 近江八幡

[旅の日記]

水郷の町 近江八幡 

 本日の旅の舞台は、滋賀県の近江八幡です。
琵琶湖の畔の水の豊かな地です。

 「近江八幡駅」の駅前には、「近江商人発祥の地」の石碑があります。
そして近江八幡に着いて、まず向かいたいところがあります。
駅から5分ぐらいの場所に小さな肉屋があり、その隣に併設されている食堂があります。
ここがお目当ての場所で、「焼肉丼」があるのです。
近江牛を使った牛丼のことで、肉屋が選ぶ厳選された肉に甘いタレをからめたものです。
一般的な牛丼屋とは違い、汁気の少ない丼です。
店の親爺さんは隣の肉屋で忙しいらしく、調理をするときを除いては店の方に姿を消してしまいます。
切り干し大根の小皿とキムチが付いたうえに、近江牛を食べることができるのですから、すごくお得です。
そして「焼肉丼」の味はと言えば、肉の旨味が出てすき焼きを思わせるような最高の味です。
近江八幡に来るなり、大満足の旅のスタートです。

 これから向かう旧市街へは、駅前の道を西に向かって2kmほどをひたすらまっすぐ進みます。
瓦屋根の「八幡小学校」が見えたところで、そこから左手に入ります。
この辺りから古い町並みが、ちらほら現れます。
と、そこに先ほどの「八幡小学校」の正門があります。
大正時代に田中松三郎氏の設計で建てられた校舎で、市内で最も古い小学校です。
左右対称でネオルネッサンス調の真っ白い壁をもつ、美しい校舎です。

 その先には、「池田長洋館街」と呼ばれる場所があります。
通りと敷地を仕切る煉瓦造りの壁が連なっています。
背の高さほどに統一され、通りを飾っています。

 この辺りをぶらり散策してみましょう。
北側に歩くと、観光バスが止めるような駐車場があります。
その先には、「旧伴家住宅」があります。
伴庄右衛門は江戸初期に活躍した八幡商人(近江商人)で、江戸日本橋で麻布、畳表、蚊帳を商いました。
扇屋の屋号を持ち、巨大な財を成しました。
今に残る「旧伴家住宅」は、7代目の伴庄右衛門能尹が本家として1840年に建てたものです。
伴家が途絶えた後は、小学校や役場、そして近江兄弟社図書館として使用されてきました。

 「旧伴家住宅」の向かいには、2階建の洋館があります。
「郷土資料館」で、近江商人で栄えた当時の道具が並んでします。
近江商人 西村太郎右衛門邸跡に、1886年に八幡警察署として建設されたものです。
この後で訪れますが、「近江兄弟社」の「メンソレータム」の看板も掛かっています。

 「郷土資料館」の建物を奥に進むと、そこには「歴史民俗資料館」があります。
江戸時代末期の民家を修復して資料館にしたもので、商人達が使った道具が並んでします。

   

 ここから一旦外に出ます。
「郷土資料館」の横に琵琶湖に向かう新町通りがあります。
先に八幡山を臨む通りの両側には、近江商人の家々が並びます。
「森五郎兵衛邸」は、煙草や麻布を商い、のちには呉服や太物にまで幅広く商売をしてきました。
大坂本町や江戸日本橋に出店するまでになりました。
「西川庄六邸」は、蚊帳、麺、砂糖や扇子を取扱い、その子孫は江戸日本橋にも出店し九州島津藩の指定卸にも選ばれました。

 そんなか、「旧西川家住宅」に入ってみましょう。
ここは江戸時代から明治時代前半にかけて、蚊帳、畳表などの商いに成功し財を成した近江商人 西川利右衛門の屋敷です。
門戸を潜り、そこから伸びる路地を通って玄関に向かいます。
切妻造、瓦葺の母屋は、入り口を入ると屋根裏まで吹き抜けの広々とした造りになっています。
屋号を大文字屋と称し、近江を代表する豪商としての地位を築きましたが、300年続いた家系も1930年には途絶え、現在は市が管理しています。

 通りを進むと、堀に出ます。
「八幡堀」で、1585年に豊臣秀次が八幡山に築いた「八幡城」の堀だったところです。
この堀を琵琶湖に繋ぎ船を城下内に寄港させることで、近江の町に人と物を集め城下を賑やかにしました。
楽市楽座制の導入し、この辺りは大いに栄えたのです。
今では堀には水郷巡りの船が行き交い、周りの商家にも似合ったのんびりした船旅を楽しむことができます。

 ここからは「日牟禮(ひむれ)八幡宮」に向かいます。
途中の土産物屋では、勧められるままに試食をして回ります。
麩の店では、麩の中にあんこを詰めた最中を口にします。
そして近江八幡名物の「赤こんにゃく」は、こんにゃくなのに赤い色が目をひきます。
ピリ辛の味付けをしたものは、酒のつまみに合いそうです。
思わず買ってしまいます。

 「ヴォーリズ像」は、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家であるウィリアム・メレル・ヴォーリズの石像です。
少女が花束をヴォーリズに差し出しており、花だけは毎回生花を入れ替えています。
「関西学院大学西宮上ヶ原キャンパス校舎」や「明治学院チャペル」、「同志社大学今出川キャンパス校舎」、「神戸旧居留地38番館」、「日本基督教団大阪教会」など多くの設計を手掛けてきました。
先ほど見てきた池田町洋館街の「ウォターハウス記念館」、そしてこれから訪れる「ヴォーリズ記念館」も、彼の作品です。
ヴォーリズは建築家の他にも「ヴォーリズ合名会社」を設立し、「メンソレータム」を普及させた実業家でもあます。
「ヴォーリズ合名会社」は、後の「近江兄弟社」のことです。
そして石像の道向かいには、「近江兄弟社」があります。

 また「ヴォーリズ像」の隣には、「西川甚五郎邸」があります。
「ふとんの西川」で有名な「西川産業」を興したのが、西川家です。
初代の西川仁右衛門は、蚊帳や畳表を扱う山形屋を1587年に開設しました。
そして1615年には、江戸日本橋に出店するまでになりました。
いまでも広大な敷地をもつ屋敷を、道から眺めることができます。

 その先には大きな木の鳥居があり、その下を車が入って行きます。
「日牟禮八幡宮」の鳥居で、そこを潜ると駐車場が見えその右手の菓子屋は人で賑わっています。
駐車場の先に、入母屋造の楼門がどっしりと構えています。
いよいよ境内に入って行きましょう。
目の前には拝殿、そしてその奥に本殿があります。
131年の成務天皇が高穴穂の宮に即位の時に、この地に大嶋大神を祀ったのが始まりだとされています。
その後、藤原不比等が詠んだ和歌に「比牟禮社」と記され名前を改めます。
さらには991年に一条天皇の勅願により、宇佐八幡宮を勧請して八幡山上に社を建立し、八幡宮を祀ります。
1005年には山麓に遥拝社を建立し、下の社と名付けられたのが今いる社殿なのです。
「日牟禮八幡宮」で身を清め願を掛けたあとは、鳥居まで戻っていきます。

 「日牟禮八幡宮」の鳥居の道向かいには、瓦屋根ながら中央に塔を持つ珍しい建築物を目にすることができます。
これが「白雲館」です。
「白雲館」は、近江商人が子どもの教育充実を図るために1877年に「八幡東学校」として設立されたものです。
建設費は当時の金額で6000円で、そのほとんどが寄付で賄っことには驚くとともに当時のこの町の繁栄ぶりがうかがわれます。
その後は「八幡町役場」などにも転用され、今は1階が観光案内所に利用されています。

 ここからは仲屋町通りを中心に、街中を歩いて行きます。
「旧八幡郵便局」は、1921年に造られたヴォーリズ建築のひとつです。
木造2階建てでありながら、個性的なスパニッシュ様式の建物が今も健在です。

 「アンドリュース記念館」は、1907年にヴォーリズの処女作として造られた「近江八幡YMCA会館」です。
YMCA活動にも力を注いでいたヴォーリズが、ハーバード・アンドリュースの資金を用いて設計したものです。
その隣の「近江八幡教会」もヴォーリズの作品です。
1924年に建てられた教会は焼失してしまいますが、今ある教会は1983年に一粒社ヴォーリズ建築事務所によって建て替えられたものです。

 最後に訪れたのは、鍛冶屋町にある「ヴォーリズ記念館」です。
今まで見てきた公共の建物とは違い、ヴォーリズが生活していた住宅で生活感を感じるところです。
事前予約をしなければ中を観ることはできませんが、彼の遺品や資料が展示されているということです。

 「八幡城」の水郷の町、そしてヴォーリズの建築物の数々を、ゆっくりと廻った近江八幡の町でした。
春の日差しがまぶしい、絶好の散策日和の1日だったのでした。

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