にっぽんの旅 近畿 滋賀 延暦寺

[旅の日記]

延暦寺 諸堂巡り 

 本日は、世界遺産にも選ばれる比叡山を訪れます。

 麓の町 坂本からは、坂本ケーブルで比叡山に登ります。
坂本駅は1927年の開業当時の姿を残したモダンな洋風建築です。
そしてケーブルカーは、2025mもの距離を11分で結ぶ日本最長のケーブルカーです。
戦時中は、坂本ケーブルも海軍に接収された時期もありました。
本土決戦に備え、比叡山頂に人間ロケット特攻機の発射基地を設置するための資材運搬用です。
発射台は完成し走行テストも完了した状態でしたが、幸い実戦に加わることなく8月15日の終戦を迎えたのでした。
その面影も今はなく、木々の間を潜り抜けて力強く進む車窓からは、時折眼下に琵琶湖が眺めることができます。
11分の旅を終えて抜654mに建つ比叡山駅舎も、随所にレリーフが施されたバロック建築によく見られる建物です。

 比叡山「延暦寺」は、天台宗の本山寺院です。
「延暦寺」というのは、実は1社の名称ではなく、これから訪れる寺社の総称を「延暦寺」と呼びます。
そしてその中に、大きく3つの地域が点在しています。
ケーブル比叡山駅から程近い東塔、その北西に位置する西塔、さらに北の離れたところにある横川に分かれています。
驚いたことに、京都の洛北にある三千院も「延暦寺」の一部なのです。

 788年に最澄が、薬師如来を本尊とする一乗止観院(現在の根本中堂)を開きます。
比叡山は京の都から見て鬼門である北東に位置していたことからも、信仰の対象になり朝廷から手厚く保護を受けます。
鎌倉時代以降では、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人などに関わりがあり、あらゆる宗派を受け入れ日本仏教の母山と仰がれています。
一時は3000もの寺院が存在していた「延暦寺」ですが、浅井・朝倉両軍をかくまったことが発端となり、織田信長によって1571年に比叡山は全山焼き払われます。
しかしその後の再興により、現在では100余りの寺院が復元されています。
そういうわけで今ある「延暦寺」の寺院は、信長の焼討ち以降に建てられたか他から移築されたものばかりなのです。

 それでは、ケーブル延暦寺駅に近い東塔の寺院を訪れてみます。
「延暦寺」のなかでも一番有名なのは、「根本中堂」ではないかと思います。
「延暦寺」の総本堂でもあります。
中庭が配置される寝殿造をしており、総欅造の朱塗りの建物が眩しい限りです。
最澄が一乗止観院を創建した際、自らが刻んだとされる薬師如来が祀られているのが、ここ「根本中堂」です。
開創以来1200年間絶やさずに燃やし続けていると言われる「不滅の法灯」が、宝前で輝いています。

 「根本中堂」の正面には、長い石段が続いています。
登り切った先にあるのが、「文殊桜」です。
ここは「延暦寺」の山門にあたり、徒歩で比叡山を登って来たときには、最初にこの門を潜るのです。

 次に訪れるのは、「大講堂」です。
山麓の町 坂本にあった讃仏堂を移築したものです。
釈迦を始め天台宗ゆかりの高僧の肖像画がかかっています。

 その先には「戒壇院」があります。
参拝の列はこの先の「阿弥陀堂」に向かい、脇に逸れた「戒壇院」を訪れる人はまばらです。
最澄が構想した大乗戒壇授戒のために建立された建物です。
大乗戒壇授戒とは僧になるための必修のひとつで、それを行う「戒壇院」は「延暦寺」のなかでも大切な建物として数えられます。

 さてさらに進むと「阿弥陀堂」と、その横には「法華総持院東塔」があります。
「阿弥陀堂」は、壇信徒の先祖回向の道場として1937年に建立された比較的新しい建物です。
お堂の前には水琴窟があり、人がよつんばになって耳をすまして水の音を味わっています。

 「法華総持院東塔」は、国土と国民を護ることを発願し全国6箇所に最澄が建てた宝塔のうちのひとつです。
ここも信長の焼討ちに合い、1980年に400年ぶりに再建されたものです。

 ここで賑やかな東塔地区を離れて、西塔地区にバスで移動します。
わずか3分ほどの距離ですが、人があふれ返っていた東塔とは打って変り、こちらは寺院のもつ落ち着きと静寂さが広がっています。
まずは「法華堂」を目指します。

 苔むした先に静かに「法華堂」はあります。
そしてその隣には同じ形をした「常行堂」があり、この2つのお堂は渡り廊下でつながっています。
渡り廊下をにない棒に見立てて、武蔵坊弁慶が肩で担ぎ上げたという逸話から、これら2つのお堂を合わせて「弁慶のにない堂」と呼ばれています。
「法華堂」と「常行堂」は、それぞれ普賢菩薩と阿弥陀如来を本尊として祀っています。

 にない棒である渡り廊下を潜り抜けて行くと、石段を降りた先に「釈迦堂」があります。
西塔の中心で、正式には「転法輪堂」と言います。
信長の焼討ち後に、秀吉が大津の園城寺(三井寺)の金堂を移築したもので、「延暦寺」のなかは最古の歴史を誇ります。
ちょうどお参りしたときに、お坊さんの高話が始まりました。
延暦寺の歴史から、3つの地域に分かれており、それぞれに意味があること、比叡山での修行の話など、20分ほどの有難いお話です。
それによると東塔地域の寺院は現在、西塔は過去、そして横川は未来を体現しているとのことです。

 それでは、最後に未来を表す横川に向かいましょう。
横川へは路線バスで向かいます。
10分ほど山道をクネクネ揺られて、横川バス停に着きます。
一段と人は少なくなり、寺巡りの実感が湧いてきます。
なにせこの時期の「延暦寺」特に東塔は、紅葉を目当てに来る観光客でいっぱいですから。

 バスを降り、参道を歩いて行きます。
やがて右手に斜面に造られた舞台造りの「横川中堂」が見えてきます。
横川の中心となる寺院で、本堂の屋根は遣唐使船をモデルとして造られました。
慈覚大師円仁が伝教大師の教えに基づき848年に創建したもので、聖観音像と毘沙門天像が安置されています。
焼打ち、落雷と焼失と再建を繰り返し、今ある建物は1971年の伝教大師千百五十年大遠忌を記念して復元されたものです。

 「横川中堂」の正面の道を進み、朱塗りの鐘桜を右手に曲がった先に「恵心堂」という小さなお堂があります。
浄土教の礎を築いた恵心僧都源信が、念仏三昧行を修した日本浄土信仰発祥の地です。
現在の「恵心堂」は、比叡山の麓の坂本里坊にあった別当大師堂を移築再建したものです。

 それでは先ほど通った鐘桜を左に進みます。
そこには「四季講堂」があります。
元三大師画像を本尊として祀っていることから、正式名を「元三大師堂」と呼びます。
慈恵大師(元三大師)の住居跡で、967年以来村上天皇の勅命によって四季に法華経が論議されたことから四季講堂とも呼ばれています。
また、おみくじ発祥の地としても有名です。


 最後に「根本如法塔」に寄ります。
杉木立の通りの1段高くなったところに、「根本如法塔」はあります。
朱塗りの如法塔で、慈覚大師円仁が大病を患った時に書き写した法華経を、小塔を建てて安置したのがこの塔です。

 さて、「延暦寺」の過去・現在・未来を案じて巡ってきました。
ひっそりしている横川地域とはいえ、紅葉シーズンの今かなりの人がこの地を訪れています。
東塔へのバス停では、既に長い列ができています。
その上、混んでいるのか30分に1本のバスがなかなか来ません。
しばらく待って来たバスは臨時のようで、こちらに向かう客は誰もおらず、何とか乗り込むことができました。

 そして坂本ケーブルの下りに乗るにも、長蛇の列。
こちらも15分おきと2倍に増便しているものの、順番が回ってきたのは4台目の乗車でやっと乗れたのでした。

旅の写真館