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[旅の日記]

幻の安土城 

 織田信長によって造られた「安土城」を追って、JR安土駅に来ています。
今日は、安土を散策してみます。

 琵琶湖の東岸に位置する安土駅は、観光名所である近江八幡駅から1駅北にあります。
駅前こそ家がありますが、少し離れると田畑が広がる田園風景豊かな場所です。
駅には「織田信長像」が建っており、信長信仰の厚さを感じることができます。

 まずは、「安土城址」を訪れてみます。
「安土城址」へは駅から北に1km強の距離があり、畑の真ん中を抜けて行きます。
その先の山が目賀田山(現在の安土山)で、山腹には「安土城址」と書かれた大きな看板が掲げられています。
「安土城址」には実に40年ぶりの訪問ですが、天主閣(安土城だけは天守ではなく天主と呼びます)があるわけでもなく正直言ってあまり印象が残っていません。
麓の休憩所は整備されたようですが、今回もひらすら坂道を登る必要があるようです。

 かつては絢爛豪華な「安土城」がそびえ立っていた安土山の山頂へは、石段を登っていきます。
登り口で杖を借り、その杖を頼りに1段ずつ登って行きます。
左右の傾斜面に石垣を積み上げ、平らな土地を造り出しています。
今の姿からは想像もできないのですが、当時は石段の両脇に武士の屋敷が山頂まで連なっており、この石段は町の中を走る大通りだったのです。

 進むにつれてさらに石段は傾きを増し、周りの木々が石段まで迫ってきます。
そしてようやくたどり着いた山頂が、かつての「安土城」があった場所です。
いまは基礎の石が残っているだけで、当時の面影はありません。
ここからは琵琶湖が一望できますが、当時は琵琶湖が安土山の真横にまで接していた防御の城だったのです。

 城の歴史は、明智光秀の配下で近江守護佐々木氏に仕えた目賀田氏の時代までさかのぼります。
織田信長が支配していた岐阜城より京に近く、しかも琵琶湖の水運が利用でき北陸街道の要所であるこの地を選び、目賀田氏の居城であった目賀田城を明け渡すよう要請します。
信長の絶頂期であった当時、目賀田摂津守貞政は逆らうことなく目賀田山を差し出します。
信長はこの土地に一向一揆に備えるため、そして上杉謙信への警戒のための城を築きます。
地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32m、金をあしらった信長の権力を象徴する「安土城」が、1579年に誕生したのです。

 そんな信長も1582年には、家臣明智光秀による謀反(本能寺の変)で首をはねられてしまいます。
その後まもなく、原因不明の火災が発生して城は焼失し廃城となってしまいました。
築城からわずか3年後のことでした。

 大手門口から天主までの間に二の丸があり、その跡地に豊臣秀吉が建立したとされる「織田信長廟」が残っています。
全国各地に信長の墓はありますが、本能寺の変で信長の亡骸は見付かっておらず、いずれの墓も遺骨が納められている訳ではないのです。

 そこから正面の石段とは別に「ハ見寺」を回って下山していく道があります。
「ハ見寺」は「安土城」築城の際に、信長が自らの菩提寺として建てたもので、1854年の火災で本堂などを焼失してしまいます。
徳川家康邸があったところにハ見寺仮本殿を造ったものの、いまは石垣だけが残っています。
しかし三重塔と二王門だけは、今も姿を残しています。

 安土山の麓まで降り、次は少し離れたところにある「信長の館」に向かいます。
先ほどのように畑の真ん中の道を進みます。
真ん中にドームをもった建物が見えます。
ここが「県立安土城考古博物館」です。
館内には近江の古代遺跡と、中世城郭の観音寺城跡、近世城郭の安土城跡が紹介されています。

 そしてその隣に「信長の館」はあります。
館内には、今は亡き「安土城」の最上階の6階部分とそのひとつ下の5階が忠実に再現されています。
わずか3年の命であった幻の城が、ここに蘇ったのです。
5階部分は朱色で統一された正八角形の部屋で、柱にはのぼり竜とくだり竜の彫刻が施されいます。
6階は金箔が施された正方形の部屋で柱は黒漆塗り、きらびやかでいながら趣のある造りになっています。

 帰りはまたしても畑の真ん中の道を進みます。
安土の北側をぐるりと1周してきた格好になります。
安土駅の東側には「安土城郭資料館」があり、町全体が「安土城」で潤っている安土の町です。

 さてここまで来たのですから、今晩は近江牛です。
サシの入ったちょっと高めの良いところを、大奮発して買って帰ります。
口に入れると溶けてしまうような近江牛で、大満足したのでした。

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