[旅の日記]
四ツ橋筋となにわ筋 
今日は四ツ橋筋、そしてその西のなにわ筋を南北に歩いてみます。
スタートは肥後橋駅からです。
肥後橋にあるのが「フェスティバルタワー」です。
大川が土佐堀川と堂島川に分かれ、その2つの川に挟まれた中之島に建つツインタワーです。
1階にあるのが大阪を代表するコンサートホール「フェスティバルホール」です。
「世界的な音楽祭を日本でも」との掛け言葉で1958年に新朝日ビルディング内に造られました。
2012年にはレストランや会社が入る高層ビルに生まれ変わりましたが、コンサートホールは今も健在です。
ホールの入り口は赤絨毯が敷かれ横幅の広い豪華な階段が広がります。
中之島の北を東西に流れる土佐堀川、その北側の地名が堂島です。
ここで有名なのが「堂島ロール」というロールケーキです。
スポンジの中に生クリームがたっぷり入ったものですが、意外と軽く食べることができます。
春にはイチゴクリームの入ったものも販売されます。
今からの街歩きには邪魔になりますので、帰りに買って帰ることにします。
ここからは南に向かって歩いて行き出します。
肥後橋駅と本町駅の真ん中にあるのが、「靭(うつぼ)公園」です。
通路はケヤキ並木があり、その周りで子供連れが遊んでいます。
左右に細長い公園を、西に向かって歩いて行きます。
そこにあるのがバラ園です。
9,000平方メートルの園内には、170品種3,400株のバラが植えられています。
訪れた時は、ちょうどバラの咲き誇る時期です。
園内に咲き誇るバラで、目を楽しましてもらいました。

大阪湾が近いこの辺りには、魚や雑魚など多くの専用の市場がたっていました。
この公園の名前にある靭ですが、昆布などを扱った海産物市場がここにはあったということです。
そんなことから付いた名前でしょう。
公園はなにわ筋を越えて、さらに西に広がります。
そこには「うつぼ楠永神社」があります。
樹齢300年とされる巨大な楠が、ご神体として祀られています。
大阪大空襲で焼け野原となった大阪ですが、この楠はだけは焼け残りました。
戦後に占領軍がこの周辺を接収し飛行場を建設した時に、飛行機の邪魔になる楠を切り倒そうとしました。
しかしそれを阻止する声が大きく、無事にいまに残すことができたのでした。
公園にはその他にも、国際大会も行われるテニスコートがあります。
その先で見つけたのは、「大塩平八郎終焉の地」の石碑です。
教科書にも出てくる大塩平八郎は、江戸時代後期の儒学者です。
大坂町奉行組与力にも選ばれていました。
1833年から翌1834年さらには1836年から翌1837年にかけて起こった「天保の大飢饉」で、ことのほか人々の暮らしは窮迫したものになりました。
特に1837年にかけての飢饉の際は、幕府の儀式で必要な費用を稼ぐために大坂東町奉行跡部良弼が大坂から江戸への廻米を強行します。
ただでさえ米が不足した時に豪商が米を買い占めたため、米価は高騰してしまいます。
京は餓死者であふれ流民が大坂に流れ込んだことで、大坂の治安は悪化します。
民衆が飢餓に喘いでいることに心を痛めた平八郎は、豪商の買い占めを禁止し米価安定への政策を打ち出しますが、良弼には聞き入れてもらえません。
そこで困窮した民に米を買い与えるため、自分と門人の禄米を担保に1万両を貸して欲しいと豪商 鴻池幸実に嘆願したのですが、跡部は幸実に断るよう裏で命令します。
堂島米取引不正禁止令、堂島米相場抑制令や官米払下げなどの手を打つものの、こには限界があり米不足は一層深刻なものになっていきました。
そこで1837年に起こったのが「大塩平八郎の乱」でした。
平八郎は蔵書を売り払ったお金を分け与え、挙兵への参加者を募っていきます。
乱による火災は翌日まで続くものの、その日のうちに乱は鎮圧されてしまいます。
平山助次郎と吉見九郎右衛門の密告によって乱の計画を知ってた大坂町奉行所が、動いていたからです。
平八郎は四ツ橋の辺りで長刀を川に投げ捨て、大和国に逃亡します。
数日後再び大坂に戻り下船場の商家美吉屋五郎兵衛宅の裏庭の隠居宅に潜伏したところを、美吉屋の女中に見破られ密告されたことで町奉行に取り囲まれてしまいます。
平八郎は養子の格之助とともに火薬に火をつけて爆死するといった、壮絶な最期を遂げたのでした。
大塩平八郎の波乱万丈の一生に興奮した後は、心を落ち着けて次の神社に向かいます。
立売堀(いたちぼり)にある「サムハラ神社」は、美作加茂に奥の院を構える神社です。
サムハラという名前ですが、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の三神の総称とされています。
1935年に田中富三郎が祠を建て祀りますが、無許可神社であったことから撤去を求められます。
1950年には大阪中之島の豊国神社近くに自費で祠を建立したものが、1961年に現在地へ移ってきたものです。
ちなみにサムハラとは、写真で示すような字を書きます。
なにわ筋の西まで来てしまいましたので、なにわ筋まで戻ります。
なにわ筋は車線をつぶして、大きな工事が行われています。
道路の上に1筋になって、重機が並んでいます。
これは地下鉄なにわ筋線の地下掘削工事で、南海の難波、JR関西線の大阪難波から大阪駅までを結びます。
さらには新大阪までが、阪急が工事を進める新線でつながるのです。
2031年の開業ですが、北と南そして泉州地域が1本の路線でつながることにいまから楽しみです。
さらに進むと「新町北公園」があります。
その横のビルの片隅には、「新町演舞場跡地」の碑が建っています。
2014年まであったということですので、つい最近まであったのですね。
公園中には2つの碑が建っています。
1つ目は「新町九軒桜堤の跡」です。
江戸の吉原、京都の島原とともに三大遊里のひとつに数えられたところです。
玉造の九軒茶屋をここに移し、幕府公認の遊廓がありました。
近松門左衛門の「夕霧阿波鳴波」や井原西鶴の「好色一代男」の作品に登場する吉田屋は、戦災前までここにあり賑わっていました。
もうひとつの碑は、「ここに砂場ありき」と刻まれたものです。
砂場とは、豊臣秀吉が大坂城を造る際に築城を始めた際に砂や砂利が集められた場所だったということです。
石碑には「麺類店発祥の地」とも記されています。
築城に係った工夫に素早く食べるために、そば屋が開かれたのです。
大阪のうどん文化に対して東京はそば文化と思われがちですが、そばの起源は大阪なのです。
さらには公園から道を隔てたビルには、「中村雁治郎誕生の地」と記された碑もあります。
明治から大正、昭和にかけて活躍した上方歌舞伎役者です。
屋号を成駒屋と言いました。

さて四ツ橋筋に出て、四ツ橋駅までやってきました。
四ツ橋筋と長堀通りが交わる場所に「四ツ橋跡」があるので寄ってみます。
かつてここは西横堀川と長堀川が交わる場所点でした。
西横堀川には上繋橋と下繋橋、長堀川には炭屋橋と吉野屋橋と方形に4つの橋が架かっていたことから、四ツ橋と呼ばれるようになりました。
「四ツ橋跡」では、当時の橋の一部を模ったものが飾られています。
さらに南下しながら、徐々に御堂筋の方に歩いて行きます。
三角公園がある一角は「アメリカ村」と呼ばれるところです。
古着屋やアパレルショップ、ライブハウスなどが集まっている街です。
通称三角公園(正式名を御津公園)には、若者で溢れかえっています。
豪商の大坂屋久左衛門が居を構えた場所で、西横堀川の船路を銅吹屋が集まっていたことから、その周りには木炭の問屋が多くありました。
今でも炭屋町という地名が残っています。
その近くには大阪メトロの桜川駅があります。
ほぼ同じ場所には南海電鉄の汐見橋駅もあります。
極楽橋まで続く南海高野線の始発駅ですが、直通の電車はなくすべてが岸里玉出から南海本線に合流した難波発になっています。
汐見橋と岸里玉出の区間は支線扱いで、一般には汐見橋線と呼ばれています。
今日は高野線の急行車両が入線しているということなので、寄ってみます。
薄緑に緑のラインのズームカーで、高野山の山間部の急傾斜を上ることのできる車両です。
先頭が丸みを帯びた車体は大井川鉄道で現役で走っていますが、それ以外の南海保有の車両は引退前にここにやってきたようです。
8角形の奇妙な形をした建物は「なんばHatch」です。
大型のミュージックホールで、コンサートも開かれています。
同じビルにはFM大阪も入っています。
出発地点の「フェスティバルホール」といい、そしてここ「なんばHatch」といい、音楽に始まり音楽で終る1日です。
それでは最期に道頓堀で、自分へのご褒美とします。
楽しく歩いてきたので、まずは喉を潤します。
せっかくなので「道頓堀ビール」の3種類の飲み比べをしてみます。
散策の疲れを吹き飛ばす1杯、いや3杯でした。
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