にっぽんの旅 近畿 大阪 富田林

[旅の日記]

富田林の寺内町 

 大阪の河内に江戸時代の街並みが残る場所があると聞き、阿部野橋から近鉄電車に乗り込みます。
古市で河内長野方向に乗り換え、着いたところが富田林です。
今日は、富田林を散策してみます。

 駅に着くとまずは駅東口の観光案内所を探します。
ここで寺内(じない)町の案内図と、お勧めの場所の情報を入手します。

 富田林寺内町は、1560年に西本願寺派興正寺の第14世 証秀が、石川西側の荒地を百貫文で購入し、周辺4ヶ村の八人衆の協力で、芝地の開発から興正寺別院の建立や田畑と町割等を行ったことにはじまります。
そして、この地を富田林と改めました。
その後八人衆は、年寄役となって寺内町の自治を行います。
織田信長と石山本願寺による石山合戦時には、本願寺側につかなかったことから、信長から称えられ平穏を保つことができます。
江戸時代は、この地は酒造業で栄えます。
そして幕末期には、杉山家、仲村家、奥谷家などの19名の大組衆により自治が行われていた土地でもあります。

 それでは、寺内町を順に散策していきましょう。

 
 観光案内所から市場筋を南に進み、お地蔵さんを目印に西に曲がります。
農家型の民家の「旧田中家住宅」は、内部を無料で見学できます。
和室は有料で貸し切ることもできます。
 今度は市場筋の1筋東側の富筋を南に向かいます。
「じないまち交流館」があり、町民の交流の場として、そして寺内町を訪れる者にとって自由に休憩を取ることができます。
 葛原家は、屋号「たばこ屋」とし、18世紀末に酒屋を始め栄えた商家です。
写真左手の現存する建物は、19世紀中期のものです。
 (南)葛原家は葛原家の分家で、日本でも数少ない三階蔵で知られています。
貴重な蔵は1854年の築造物です。
 杉山家は、富田林寺内町の創設にもかかわったといわれる旧家のひとつです。
江戸時代から明治時代にかけて、ここで造り酒屋を営んでいました。
明治時代に与謝野晶子らとともに活躍した明星派の歌人 石上露子の生家でもあります。
富田林寺内町の中でももっとも古い建築物であって、現存する町家の中でも最古と考えられています。
 旧杉山家の向かいには、「寺内町センター」があります。
明治期の町屋を模っており、寺内町の歴史を展示しています。
鬼瓦の展示も、ここで行われています。
 仲村家は、屋号は「佐渡屋」といい、酒造業を営んでいました。
吉田松陰が20数日間滞在したことでも、知られています。
18世紀後半の築造と考えられています。
 仲村家住宅の向かいにある上野家は、丸い虫籠窓が特徴です。
現在の「上野呉服店」で、建物は19世紀中期に造られたものです。
 街の南端まで来ましたので、ここで一筋東に移り城之門筋を北に向かって進みます。
木口家は、18世紀中期の築造と考えられています。
屋根の上の一段高い小さな屋根が、煙出し櫓(越屋根)です。
 橋本家は屋号「別井屋」と言い、入口に駒つなぎの置石があるのが特徴的です。
18世紀中期に建てられたものです。
 ここに、興正寺別院があります。
1560年に京都 興正寺の第14世証秀上人が創建した寺院で、この寺を中心に寺内町は発達してきました。
山門は、桃山城門のひとつが旧天満別院に寄与され、それをここに移建したものです。
1638年建立の本堂は、江戸時代には寺子屋として利用され、現在の市立富田林小学校の前身です。
また第二次世界大戦中は、平野国民学校の学童疎開受け入れを行ったとの記録が残っています。
 田守家は、屋号「黒山屋三郎兵衛」と呼び、木綿商を営んでいました。
建物は、18世紀中期のものです。
 仲村家から分家して佐藤家となりました。
紅梅酒味醂の醸造を営んでいました。
19世紀初期の築造物です。
 奥谷家は、屋号「岩瀬屋」という奥谷家の本家で、東奥谷、南奥谷を持ちます。
代々から材木商を営んでおり、現存する建物は19世紀初期のものです。
 「城之門筋」の名前の由来は、豊臣秀吉が築城した桃山城の門が、寺内町の中心にある興正寺別院の山門として移築されたことに寄ります。
日本の道百選にも選ばれた道です。
 その他、江戸時代の建物ではないのでしょうが、この町に合致したものがありました。
瓦屋根と銅板を壁に敷き詰めた建物です。
思わずシャッターを押してしまいました。

 このように、江戸時代にタイムスリップしたかのような富田林の1日でした。

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