にっぽんの旅 近畿 大阪 玉造

[旅の日記]

玉造から大阪城・天満宮 

 本日のスタート地点は、大阪の玉造駅です。
ここから、大阪城を中心に廻って行きます。

 1895年の大阪鉄道開業時に、天王寺〜玉造間を電車が走る終着駅でした。
しかし半年後には玉造〜大阪間が開通し、今のJR大阪環状線の途中駅として、商都大阪を支えていきます。
玉造の名前の由来は遠く古墳時代にさかのぼり、勾玉などを製作する玉作部がこの地に置かれていたことから、この地名が付いたとされています。

 それでは、「三光神社」を訪れてみます。
仁徳天皇の第三皇子である反正天皇の時代の創建と伝えられる三光神社は、真田山に鎮座し国内唯一の中風除の神として知られています。
境内には、真田幸村の像が建っており、その裏手には石を積まれた怪しげな入り口が、真田山の斜面にぽっかり口を開いています。
大坂の陣のときに掘られた大坂城からの抜け穴で、鉄の扉で守られています。
ここから大阪城までは電車で2駅近くある距離ですから、かなりの人工を要したと推測されます。

 「三光神社」に来たのですから、真田幸村が1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣で戦った「真田丸」を見に行きます。 北と東、西の3方を川で固めた大阪城ですが、唯一南側の守りが甘かったところです。 そこで堀を掘って直接攻撃されることを防ぎました。 川の水が張れなかったことから、いまの空堀商店街の「空堀」がその名残です。 その空堀のさらに南に、徳川郡からの攻撃を返り撃つために作られたのが豊臣軍で真田幸村率いる「真田丸」です。 小高く土を盛り周りを見渡せるようにして、大阪城への攻撃に防戦したということです。 大阪城陥落後に大阪城をはじめ「真田丸」も徹底的に壊されましたので、いまに残るものはありません。 推定されているのが明星学園のグラウンド付近で、道路沿いに真田丸の碑が建っています。  その道路向かいに「心眼寺」があります。 「真田幸村出丸城跡」の石碑が建っています。 中に入ると幸村を祀った墓と称する祠もあります。  ここから北の長堀通りを越え、「玉造稲荷神社」に向かいます。
「玉造稲荷神社」は紀元前12年の秋に創祀されたと伝えられ、聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争ったときに、陣を敷いたとされています。
拝殿の脇には、絵馬ならぬ「恋キツネ」の御札がずらりと奉納されています。
つがいのキツネが頬寄せ合っている彫刻ともいえる御札は、挙式後に一生相手を変えないと願って奉納するものです。
ほんのりしたキツネの姿に、気持ちも穏やかになってしまいます。

 「玉造稲荷神社」の通りを、西に進みます。
近代的な建物は、「大阪カテドラル聖マリア大聖堂 カトリック玉造教会」です。
ここは細川大名家の屋敷跡で、戦国時代の明智光秀の三女でキリシタンとなった細川ガラシャにちなんで、教会の左右に並ぶ像の向かって右側がガラシャの像です。
明智光秀の三女 明智珠は、15歳の時に光秀の主君である織田信長のすすめによって細川藤孝の嫡男 忠興に嫁ぎます。
ところが、1582年に光秀が織田信長を本能寺で討ったため、「逆臣の娘」として丹後国に幽閉され不遇の日々を送ることになります。
信長の死後、覇権を握った羽柴秀吉の後押しもあって、珠を細川家の大坂屋敷に戻されここでの監視下に置かれます。
そんな中でも、監視の目を潜って教会に行ったときに復活祭の説教を知り、キリシタンへの道を歩み始めます。
おりしも秀吉がバテレン追放令を出したときです。
珠は自宅で密かに洗礼を受け、ガラシャという洗礼名を名乗るようになります。

 その北側にも、細川家にちなんだものがあります。
「越中井」という細川忠興の邸跡にあった井戸を祀っています。
1600年に忠興が徳川家康に従って上杉攻めに出陣すると、石田三成は在阪大名の妻子を人質にしようとします。
ところがガラシャはこれに従わず、家臣に胸を突かせて短い人生を終えたのです。

 さらに北へと歩いて行きます。
中央大通りに差し掛かった法円坂辺りに、大きな公園があります。
ここが「難波宮跡公園」です。
難波宮は2世代の時代があるとされています。
最初の難波宮は、乙巳の変の後の645年に孝徳天皇は難波に遷都し、652年には宮殿を完成させます。
大化の改新もこの宮で行われます。
これが、前期難波宮の出現です。
683年には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都とします。
しかし、686年には難波宮が全焼してしまいます。

 後期難波宮は、726年に聖武天皇が藤原宇合に難波京の造営に着手させたことに始めります。
難波宮は平城京の副都として、中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られます。
その後は、745年に難波宮から紫香楽宮へ、784年には桓武天皇により長岡京に遷都を行い、大極殿などの建物が長岡京に移築されたとされています。
地面より一段高くして柱の跡を示しているのは、後期難波宮の姿です。

 中央大通りの対面には「法円坂遺跡」があます。
古墳時代中期に造られた16棟の高床式倉庫群が見つかっています。
そのうち1棟が復元されて、「法円坂遺跡公園」の片隅に保存されています。
高床式倉庫の北側には、「大阪歴史博物館」になっており、古代の難波宮から中世の水郷の大坂、近代の心斎橋筋や道頓堀の賑わいを渡り歩くことができます。
それにもまして、「大阪歴史博物館」の床面が楕円形をしている超近代的な奇抜なデザインが目を引きます。

 さていよいよ大阪城に入って行きます。
まずは外濠から大阪城を眺めてみます。
大阪城の東側であるJR森ノ宮駅から外堀に沿って北に歩くと、堀の先に高い石垣で守られた大阪城を見ることができます。
そこから一気に西側に戻り、大手門から入って行きます。
大手門の先の桜門の脇には、130tもあろう蛸石が石垣として使われています。
岡山藩主である池田忠雄が寄進したもので、そのほかにも数多くの巨石が大阪城に運び込まれました。

 桜門の前に「豊國神社」があるので、寄って行きます。
名前が示すように、豊臣秀吉・秀頼・秀長を奉祀する神社です。
1868年、明治天皇が大阪に行幸になった際、国家の為に勲労のあった奉祀するようにと祀ったのが始まりです。
京都の阿弥院峯墓前を社殿を構え、大阪には別格官幣社豊國神社の別社として中之島に創立しました。
大正時代に入った1912年、中央公会堂の建設の話が持ち上がると、府立図書館の西の公園内に神社は移転します。
昭和に入り大阪の発展が著しくなると、市庁舎増築に必要のため「豊國神社」移転の議が起こりましたが、太平洋戦争に突入し立切れになってしまいます。
再び話が動いたのは1956年のことで、徳川家に縁のある大阪城内を移転地と決定し、1961年に現在の地に移ってきました。
出世海運の神様として、崇められています。

 さて内濠に架かる橋を渡り、桜門をくぐります。
右手には「旧大阪市立博物館」があります。
城を思わせるような重厚な造りは、ここが「旧陸軍第四師団司令部庁舎」だからなのでしょう。
1929年に造られた建物は、太平洋戦争後には連合国軍により接収され、大阪市警視庁本部、大阪府警察本部の庁舎として利用されてきました。
その後は、「大阪市立博物館」として使われましたが、先ほど見てきた「大阪歴史博物館」の開館に伴って廃館になりました。

 その先に、大阪城の天守閣がそびえ立っています。
大坂城は上町台地の北端に位置し、淀川を通して京都との交通の要所でもありました。
古墳も数多く存在していましたが、戦国時代には石山本願寺も置かれます。
安土桃山時代の1580年に石山合戦で石山本願寺が焼失し、その跡に豊臣秀吉によって大坂城が築かれます。
豊臣政権の本拠地として政治の中心になった「大阪城」ですが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失してしまいます。
今の「大阪城」は、徳川政権が幕府の西日本支配の拠点として再建したものです。
姫路城、熊本城と共に、日本三名城のひとつに数えられています。

 「大阪城」の北側「京橋口」には、「大阪砲兵工廠化学分析場」があります。
大日本帝国陸軍の兵器工廠として1870年に造られたもので、大砲などを製造するアジア最大の軍事工場でした。
1952年に造兵廠自体の機能は停止し、現在は朽ちた煉瓦造りの建物が残るのみとなっています。

 ここから天満橋に出て、「大阪天満宮」まで歩きます。
天満橋駅の交差点には、ガラス張りの巨大ビル「大阪マーチャンダイズ・マート」があります。
通称OMMビルで、1969年に建てられたテナントや貸会議室が入ったビルです。

 淀川から分かれた大川に架かる「天神橋」を渡ると、西側に松屋町筋の眼鏡型をした橋を臨むことができます。
真ん中の陸地がここから西に広がる中之島で、堂島川と土佐堀川の間に挟まれた空間です。
1594年の架橋当時は大阪天満宮が管理していたが、1634年に他の主要橋とともに幕府が管理する橋となりました。
今の「天神橋」は、上下に車道が走る2階建ての橋です。

 大川の北側を、南森町方向に西に進みます。
途中、料亭の入り口に「川端康成誕生の地」の文字が見えます。
「伊豆の踊子」「雪国」などで名高い作家 川端康成がこの地の生まれだったとは、今の今まで知りませんでした。

 さて、「大阪天満宮」はそのすぐそばにあります。
やがて受験シーズンを迎えるとあって、境内には大きな賽銭箱が備え付けられていました。
901年に藤原時平によって菅原道真が九州大宰府へ左遷させられる際、道真が寄った大将軍社に立ち寄って行きます。
菅原道真の没後の949年に、大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わります。
そのため村上天皇は、勅命により天満宮を建立させます。
このことが「大阪天満宮」の始まりとされています。
学問の神様として広く信仰を集めるだけでなく、日本三大祭に数えられる天神祭もここで行われる祭りです。

 最後は「天満天神繁昌亭」です。
「大阪天満宮」の北側の門を出たところにあります。
上方落語の普及を祈って2006年に造られた寄席です。
お笑いの街大阪だけあって、至る所にこのような場があるのです。

 玉造から南森町まで決して無茶な距離ではなかったものの、急いで歩いたせいか膝が痛くなってきました。
ちょっと薬局に寄りたいので、今日の散策はこれまでとします。

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