にっぽんの旅 近畿 大阪

[旅の日記]

南蛮貿易港 堺 

 今日の堺は、なにやら騒がしく鉄砲の音が聞こえています。
何を隠そう、本日は「堺まつり」が行われているのです。
そんな堺を歩いてみましょう。

 南海本線の堺駅と平行に走っている南海高野線の堺東駅のちょうど中央に、これまた平行に走っている阪堺線(母体は南海)宿院駅があります。
堺まつりは、この堺駅と堺東駅を結び大小路通りで繰り広げられます。
鉄砲の音の主がやってきました。
パレードのひとつとして、火縄銃隊による模擬射撃が行われていたのです。
射撃が行われるたびに、白い煙が鉄砲から上がります。
パンパンと大きい音ながらも切れの良い響きは、火縄銃から発せられていました。

 宿院辺りには、道を塞ぐ出店と見学人とで思うように進むことができなくなっています。
特にザビエル公園は、人の山になっています。
脇道に逸れて、通常の堺を見て回りましょう。

 宿院には「千利休宅跡」があります。
千利休といえば、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人であり茶人であった人。
ここ堺の屋号「魚屋」で生まれた商家の子で、両親は納屋衆(倉庫業)で生計を立てていました。
利休は若年より茶の湯に親しみ、同じ堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わっていました。
特に織田信長が堺を直轄地としたときには茶頭として雇われ、これが利休の名を後世まで知らしめるものとなりました。

 次に「菅原神社」に寄ります。
通称「堺天神」と呼ばれる「菅原神社」は、997年に「天神社」として建立された由緒ある神社です。
菅原道真を祀り、1月の戎祭りでは大変な賑わいとなります。

 ここから徐々に大阪方向に進んでいきます。
「妙国寺」は、1652年建立の日蓮宗の寺院です。
境内の大蘇鉄(そてつ)樹齢1100年余と言われています。
1579年、織田信長はその権力をもって、妙国寺の蘇鉄を安土城に移植させました。
しかし、毎夜毎夜「堺妙國寺に帰ろう」という怪しげな声に信長は激怒し蘇鉄を切りつけたところ、鮮血切口より流れろ様は大蛇のようで、さすがの信長も怖れてしまい蘇鉄を即座に妙國寺に返したと言い伝えれれています。
枯れ死寸前の蘇鉄を哀れに思った日b上人は、法華経一千部を誦したところ、夢枕に人面蛇身神が現れて「報恩のため、女には産みの苦しみを和らげ、苦難には災厄を逃れ、乏しき者には福寿を授ける」と三つの誓願をしました。
そこで、御堂を建て祀られるようになったということです。

 そのそばには「本願寺堺別院」があります。
堺は古くから海上交通の要所で、1469年に中国から帰った遣明船が入港して以来、日明貿易の根拠地となりました。
堺商人は強い経済力を持ち、やがて自治都市を形成します。
蓮如上人は遣明船が帰港した翌年、堺南庄の紺屋道場円淨に蓮如上人の肖像を授けます。
上人は堺の重要性に着目し、この地に御坊を営み信證院と称します。
その後の1479年に堺の坊舎は山科本願寺に移築されますが、別院として今に引き継がれています。

 また近くには、瓦を重ねた土塀がきれいな「月蔵寺」や、境内に晶子の歌碑がある「覚応寺」もあります。

 「山口家住宅」は、大坂夏の陣の戦火により市街地が全焼した直後に建てられたもので、国内でも現存する数少ない江戸初期の町家のひとつです。
広い土間に面して3室の畳の間が並び、土間には梁と束、貫で構成する小屋組みとなっています。
「京の着倒れ大坂の食い倒れ」とともに「堺の建て倒れ」と例えられたように、堺衆は建物に贅を凝らしたといわれています。
戸時代の堺は鉄砲や包丁などの製造業を中心に商工業の町として栄えますが、錦之町東から神明町にかけての一帯は今でもそのたたずまいを彷彿させる街並みが残っています。

 ここで少し浜側に進み、阪堺電車を横切ります。
阪堺線の七道駅から先、大阪方面はしばらくは路面電車から専用軌道になります。
そして向かったのが、「堺鉄砲鍛冶屋敷」です。
建物の前までは来たのですが中に入ることができませんので、近くの「堺鉄砲館」に行きます。
ここでは、実際の火縄銃が保管されています。
「堺まつり」で撃っている鉄砲も、ここのものです。
特別に手に取らせていただくことができました。
ずっしりと重く、これを持ち歩くのはかなりの労力が必要です。

 この辺りには包丁店も数多くあります。
鉄砲のみならず、鍛冶屋を活かした包丁も堺の名産品なのです。
そして、もうひとつの名産が線香です。
趣のある建物があるなと寄っていくと、そこは線香屋さんだったのです。

 それでは阪堺線沿いに南に戻っていきます。
ただし今度行くのは、浜の方です。
大浜公園から道路を隔てて高速道路の下に堺灯台は保存されていました。
見たことのないような白い木造の灯台で、当時を偲ぶことができます。
黄金の都であったころの堺のことを、今こうしてひっそりと当時の様子を物語っているような気がしました。

   
 

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