[旅の日記]
東海道五十七次の守口宿 
日本橋から三条大橋までの東海道五十三次が有名ですが、実は大坂までの東海道五十七次もあります。
歌川広重の描いた浮世絵がるため広く知られる東海道五十三次に対して、参勤交代のための五十七次が実質的な宿場を指します。
今日はその最後の宿場町である守口宿から大坂までを歩いてみます。
五十七次目の守口宿は、京阪電車の守口市駅からの出発です。
守口には難宗寺があります。
1477年に第八代宗主蓮如上人により開創された寺院です。
境内には巨大ないちょうの木があります。
大阪府の天然指定物に指定されている大いちょうで、400年の樹齢と推定されているものです。
その先から大阪に向けて走る道が旧東海道です。
奈良時代から存在する古道を、1596年に豊臣秀吉が毛利一族に命じて整備し、のちに京街道と呼ばれるようになります。
三条大橋以降の東海道は、伏見、淀、枚方、そして57次目のここ守口淀宿と続きます。
江戸幕府の参勤交代のため、宿場には旅籠となる本陣や脇本陣が置かれていましたが、今は残っていません。
時代は江戸時代まではさかのぼりませんが、街道沿いには昔からの家が残っています。
そしてこの辺りの道は、周りに較べて高い場所にあります。
交差する道は階段があり、ここが高いことが判ります。
「文禄堤」と呼ばれています。
秀吉は淀川に堤防を築き、街中を通る道とは別に大坂から京を素早く移動できる道を展望の上に整備したのです。

その先に、当時の面影を残すものがありました。
それは高札場で、街道沿いに整備され残されています。
秀吉時代の京街道の大坂側の終点は京橋口でしたが、のちの江戸時代には東海道の終点は高麗橋東詰に移りました。
本町橋は、文禄堤が交差する道の上を渡る橋です。
現在は道になっていますが、当時は川だったところです。
しばらく進んでいくと、京阪東通商店街に出ます。
商店街の中には、守居神社があります。
918年にこの地に鎮座した神社で、素戔鳴大神(すさのおのおおかみ)、賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)が祀られています。
社名は、守口と土居の各1字を用いて守居と呼ばれました。
境内には稲荷神社、寒神社が祀られています。
さらに歩いていくと、大阪市に入ります。
ここには千林商店街があります。
大阪の人情豊かなことで有名な大阪を代表する商店街です。
ダイエー発祥の地としても有名なところです。
かつては隣接していたダイエー、ニチイ、長崎屋、イズミヤとの価格競争の激しさから、日本一安い商店街と言われていました。
アーケードが切れても、街道沿いには昔から続く商店街の雰囲気が辺り一帯に漂っています。

その先も道は続きます。
そして現れたのが榎並地蔵です。
古くから野江村の住民に祀られてきたもので、旅人には旅の安全を祈願するための役割を担ってきました。
近くには石仏の並ぶ榎並講もあります。
さてJRと京阪電車の京橋駅に辿り着きました。
いまは繁華街として昔の姿は残っていませんが、唯一駅の近くに京と大坂を示す石標が見つけました。
道を行き交う車と駅の人の流れを背景に、ひっそりと立っています。
ここで寄りたいところがあります。
今はJR東西線をつながった学研都市線で京橋を出ると早々と地下に潜ってしましますが、昔はJR片町線だった路線です。
そして京橋駅のほど近くのこの場所に、終点の片町駅があったはずです。
その足跡を確認したかったのです。
道の橋に1枚の看板を見つけることができました。
JR片町線のさらに昔の名称である難波鉄道の看板です。
わずかではありますが、片町駅があったことを示すことが判ります。

さらに歩いていきます。
左手には大阪城が見えてきました。
さていよいよ京街道の終点も間近です。
そして着いたのが、今日のゴールである京橋口です。
ここから昔の人は江戸を目指した旅の起点としたことしょう。
江戸時代の東海道五十七次、いやそれより前の京街道を巡る街歩きでした。
11月だというのに汗ばむくらいの好天に恵まれた1日でした。
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