にっぽんの旅 近畿 大阪 北浜

[旅の日記]

北浜界隈のレトロビル 

 本日訪れたのは、大阪駅の1駅南の淀屋橋、北浜です。
ビジネス街として栄える両駅ですが、第2次世界大戦で焼け残った建物があるもの、この地なのです。

 肥後橋と中之島の間に、三井住友銀行の大阪本店があります。
旧住友銀行本店で、この辺りは住友村と呼ばれる住友系のビルが立ち並ぶ地域です。
三井住友銀行が入る住友ビルディングは、住友財閥の総本店として建築されたものです。
黄土色の竜山石で作られた建物には、小さめの窓が並んでいます。

 銀行の南側には、社交倶楽部である大阪倶楽部があります。
1924年に建てられた建物ですが、前身は1914年に創建された英国城館風の大阪倶楽部が前身です。
1922年に失火のために焼失した旧館のために建て直されたのが、今に残る煉瓦造りの大坂倶楽部です。
戦後は占領軍が接収を余儀なくされた時期もありました。
今では室内楽専用のコンサートホールとして、利用されています。

 淀屋橋からは北浜を目指して、西に進みます。
土佐堀川の岸壁にはカモメが群れをなして飛来しており、海が近いことが判ります。
中之島の大阪市役所の向かいには日本銀行大阪支店、裏には煉瓦造りの中央公会堂があります。
中央公会堂については、別の章でくわしく述べていますので、今回は中之島の南に流れる土佐堀川南側を進みましょう。

 適塾は、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期の1838年に船場に開いた私塾です。
現在の北浜に移ってきたのは1845年のことで、洪庵がこの地の商家を購入して以降蘭学教育の発信地となりました。
洪庵は江戸や長崎で学んだ後、ここで門下生たちを24年もの間指導してき、ここから明治維新とその後の日本の近代化に貢献した多くの人材が輩出されました。
現在の大阪大学医学部の前身とされており、福澤諭吉も入門生のひとりです。

 適塾の南側には、大阪市立愛珠幼稚園があります。
大きな御殿を思わせる木造の園舎で、正面に構えるどっしりとした木製の門も印象的です。
現存する幼稚園としては、2番目の歴史を誇る建物です。
幼稚園は1880年に船場北部の連合町会によって設立され、その後運営を大阪市に移管されて、1901年には現在の地に移転してきました。
民間幼稚園としては、日本最古のものです。

 その南側を少し戻って、淀屋橋駅近くには八木通商の社屋があります。
旧大阪農工銀行の建物で、イスラム建築に見られるアラベスク調の素焼きの陶板で飾られたビルです。
この辺りは日生村。日本生命の近代的な社屋が集まっている場所に、ひときわ目立つ存在です。

 煉瓦の赤色が目を引くのは、旧大阪教育生命保険ビルです。
屋根にはドーマー窓を備え、エントランスに細かな装飾を施した洋館です。
辰野金吾が手掛け1912年に竣工した建物は、赤煉瓦の外壁に白い石でラインを描く、いわゆる辰野式と呼ばれる一世を風靡したデザインです。
現在はフレンチレストランのウェディングが入り、古き文化を今に保っています。

 さていよいよ堺筋橋に出ようというところに、壁一面のツタが印象的な青山ビルがあります。
1921年建設の地上5階、地下1階の鉄筋コンクリート造りです。
1階には丸福珈琲店、地下には中華料理の龍門が入っており、私も度々食事にきているところです。

 堺筋に出ましたので、北浜の交差点まで少し北に戻り、そこから堺筋を南下していきます。
北浜には、この地が西日本の銀行・証券の一大拠点を成す源となった大阪証券取引所があります。
古代ギリシャの建築を思わせるような巨大な柱に囲まれた造りの建物で、古そうでモダンな感じの建物です。
諸藩の蔵屋敷があった江戸時代の大阪で、米取引における帳簿上の差金の授受によって決済を行う帳合米取引が行われました。
要するに世界で初めての公設の商品先物取引が大阪で行われており、これが大阪証券取引所の起こりなのです。

 大阪証券取引所の北側、土佐堀通りの向こう側には、ビルの間に挟まれた縦に長い旧桂隆産業ビルがあります。
イギリス式の洋館で、緑青色の天井が目を引きます。
1912年のレンガ造りの建物で、株の商人によって建てられたたものです。
株を売買する会社としてこの地に根付いていたのです。

 銀行や証券会社がひしめく北浜界隈ですが、堺筋に目を移すと石造りの三井住友銀行の大阪中央支店の建物もあります。
1936年に造られた、地上3階、地下1階の建物です。

 三井住友銀行に対して堺筋の対面には、旧報徳銀行大阪支店の新井ビルがあります。
1922年に建てられた地上4階、地下1階建ての洋風のビルです。
銀行として建てられただけあって、ずっしりした頑丈な造りではあるのですが、その反面壁のあちらこちらに装飾を施した愛らしい印象の建物です。
何故か親しみを持てます。
1階には洋菓子店があり、甘い臭いを発しています。

 その南には、濃い黄土色をした巨大な建物があります。
高麗橋野村ビルディングで、7階建の壮大な造りです。
野村財閥の野村合名が建てた最初の貸ビルで、5階までの角を丸く模った曲線と、戦後に増築した6階以上の直線的な造りが、綺麗に組み合わさって建物を模っています。
1927年に建てられた安井武雄の設計で、当時のドイツの建築家エーリヒ・メンデルゾーンが使った各階間の腰壁上端を外側に迫り出させた外壁形状を採っています。

 堺筋を南へ進むと、道修町に真っ黒の瓦屋根の棟があります。
ボンドで有名なコニシの本社です。
道修町といえば、武田薬品工業、塩野義製薬、田辺三菱製薬が本社を構える日本の製薬会社が集まる場所ですが、コニシにおいても例外ではありません。
1870年に製薬の製造販売をおこなう「小西屋」として創業します。
当時は製薬だけでなく洋酒や缶詰などの食品類も扱っており、アサヒビールの前身のアサヒ印ビールの製造も手掛け、そののちの大阪麦酒会社へ続きます。
1925年には小西儀助商店となり、1952年の合成接着剤「ボンド」の成功により、今日の日本を代表する接着剤のトップブランドとして成長するようになりました。
小西屋・小西儀助商店時代の本店は、小西家住宅として保存されています。
またサントリーの創業者である鳥井信治郎が丁稚奉公に入ったのもコニシで、鳥井はウイスキーの製法をここで学んだとされています。

 その先に、時計台のあるビルが見え、興味を引きます。
生駒時計店で、1930年の建物です。
生駒時計店は1870年に、御堂筋で「大阪屋権七・大権堂」の商号にて創業します。
ところが昭和の初めの御堂筋の拡幅と地下鉄工事のために立ち退きを余儀なくされ、ここ堺筋に移ってきます。
戦中の空襲、そして阪神大震災にも補修は必要でしたが耐えしのぎ、当時の姿を今に伝えています。

 さて次は、1931年に建てられた綿業会館本館です。
本町にほど近い船場で、堺筋を御堂筋側に入ったところにあります。
ジャコビアン様式の5階建ての建物は、東洋紡績専務取締役・岡常夫の遺族と関係業界からの寄付金をもとに日本綿業倶楽部の施設として建設されました。
国際会議の場としての利用され、国際連盟満州事変調査団の宿泊場所としても使われたことがあります。
内部は見学のみならず、食事付き見学も設定され、内部のデザインを楽しむことができます。

 本町と心斎橋の間に、「うさみ亭」という小さなうどん屋があります。
きつねうどん発祥の地で、揚げに十分にしみた甘辛い醤油が旨く、楽しい味です。

 その先を歩くこと20分、道頓堀川を越えていよいよ難波までたどり着きました。
ここには、大阪の台所である黒門市場があります。
アーケードを潜ると、一見ガラの悪い叫び声が聞こえてきます。
店の呼び込みです。
品物といえば、新鮮で安さではどこにも引けを取りません。
さすが食の街大阪です。

 黒門市場を抜け、日本橋に差し掛かります。
ここは関東の秋葉原と並ぶ、関西の電気街です。
ネット通販は幅を利かせてきた昨今出会え、ここでしか手に入らないものも数多くあり、土日となると人波が途絶えることはありません。
ただ近年は秋葉原同様に、1筋それるとアニメやメイド喫茶が立ち並び、少し違った雰囲気になってきているのも確かです。

 堺筋を南下しての散歩でした。
実は淀屋橋(その西の肥後橋)にロールケーキの美味しい店があるのです。
その名も堂島ロールと言い、この日も堂島ロールを買い、住友銀行の夜景を見ながら帰ったのでした。

   
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