にっぽんの旅 近畿 大阪 平野

[旅の日記]

平野郷 

 本日は、大阪南部に位置する平野の散策です。
紫色がトレードマークの地下鉄谷町線に乗り、平野駅を目指します。
平野郷は抗全神社を中心に住民自治が生まれた都市で、近くの住吉とともに、栄えてきました。
地下鉄平野駅を降りJR関西線平野駅に方面に向かうと、当時の姿を垣間見ることができます。
通りの両脇には、瓦屋根の民家が軒を構えています。
木と白壁で塗られた建物からは、屋根の軒下の銅板が緑青の鈍い輝きを放っています。

 歩いていくと、住宅の中にポカリと空いたスペースがあることに気が付きます。
遊歩道になっており、床に敷き詰められたタイルが線路の模様を表しています。
やがて描かれた線路は二股に分かれ、その2本の線路に挟まれるように終着点である駅があります。
そう、ここが南海電鉄の平野駅の跡地なのです。
南海電鉄と言ってもピンとこないかもしれませんが、阿部野橋から出ているチンチン電車だったのです。
そういえば今でも阿部野橋からは浜寺に行く路面電車が走っていますが、地下鉄が走るまでの平野の足と言えば、こののんびりとしたチンチン電車とトロリーバスだったのです。

 旧平野駅の先には、西脇口地蔵があります。
この地域の地蔵さんとして、親しまれています。

 ここから平野公園までは、昔ながらの平野本町商店街が東西に走っています。
今の平野からは考えられないのですが、どこからこんなにお客さんが来るのかと思わせるような店の数々は、南海平野線が全盛期のころの名残でしょうか。
もっとも今は、シャッターを下ろしている店も少なくはないのですが・・・
十字路にある石の標識を眺めながら歩いていくと、突如石造りの建物が現れます。
小林新聞舗は、大阪市内で最も古い朝日新聞の販売所なのです。
壁には最近はお目にかかれない朝日を模った看板がかかっており、歴史を感じさせます。

 そしてその隣には、朱色の門構えがまぶしい全興寺があります。
聖徳太子が平野の地に薬師如来の像を安置されたと伝えられており、今の本堂は1615年の大坂夏の陣の後に再建されたものです。
境内には、「小さな駄菓子屋さん博物館」というミニ展示館があり、明治から昭和に流行った駄菓子やおもちゃが展示されています。
その横の建物ののれんから顔を出すと、ここにはおばあちゃんの部屋が再現されています。
また地獄堂では、怖そうな閻魔さんが地獄の様子を語っているのです。

 全興寺で少し楽しんだ?あとは、本当の閻魔大王を見に行きます。
長寶寺は桓武天皇の妃で坂上田村麻呂の娘である坂上春子姫が、出家して開いた寺です。
閻魔さんの日におでこに閻魔様の宝印を押されれば、極楽へ行けると伝えられていますが、その閻魔さんの日は5月18日とのこと。
来年、また来ることにします。

 全興寺の近くには、坂上田村麻呂の子、坂上廣野麻呂が住んだ平野殿の跡地があります。
またその北には坂上の子孫である末吉家の屋敷があり、平野七名家のひとつに数えられています。
地車小屋の前では、夏祭りに備えて笛と鐘のお囃子の練習が鳴り響いています。

 さらに歩いていくと、大念仏寺があります。
良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子から夢のお告げを受けて、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として1127年に創建したのが始まりと言われています。
総欅造り銅板葺きの本殿は、東西50m、南北40mで、大阪府下最大の木造建築です。
 そして次は、国道を越えた北側に位置する杭全神社(くまた)です。
坂上田村麻呂の孫で、この地に荘園を有していた坂上当道が社殿を創建したのが始まりです。

1321年には熊野三所権現を勧請合祀し、後醍醐天皇から「熊野三所権現」の勅額を賜って、熊野権現社の総社とされた由緒正しい神社なのです。
こじんまりとしても名前な「大門」をくぐり中に入ると、縦に細長い境内の先に拝殿があります。
その奥には、檜皮葺きの本殿があります。
やがて来る夏祭りでは、ここは大賑わいになることでしょう。
平野の住民でもないのに、今から楽しみです。

 最後に、地下鉄平野駅まで戻ります。
大阪教育大学の附属幼稚園の園庭に、昔の路面電車があります。
寺田町と百済を結んでいた「大阪市電百済線」です。
南海平野線の緑一色と違い、こちらは肌色とあずき色の懐かしい車体です。
1950年から1968年の間、市民の足として走っていたものが、ここに残されています。

 今日の散策は、これにて終了。
情緒ある平野の町を歩き回った1日でした。

 
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