にっぽんの旅 近畿 大阪 枚方

[旅の日記]

枚方から寝屋川まで 

 本日は京阪電車の枚方市駅に来ています。
江戸から京までの東海道に大坂までの京街道(大坂街道)を加えて「東海道五十七次」と言いますが、その56番目にあたるのが「枚方宿」です。
その枚方と隣の寝屋川を歩いてみます。

 まずは駅の北側の「かささぎ橋」から散策の開始です。
「かささぎ橋」は天野川に架かる橋で、そこに走る旧国道2号線には多くの車が行き交っています。
そんな橋の片隅に、昔の欄干が残されています。
中国の棚機(七夕)説話によると、天の川にかささぎの群れが集まり橋となって、牽牛と織女との橋渡しとなったと言われています。
そのことから天野川に架かるこの橋は、「かささぎ橋」と呼ばれるようになりました。

 そこから遠くない天野川の堤防の根元に、「東見附」があります。
京から大坂に入る際の「枚方宿」の東の入口です。
当時は通りの両側に松が植えられ、「河内名所図会」には大名行列を「東見附」で迎える光景が描かれています。
「東見附」のあった場所には、1本の松が残されています。

 その手前にある建物は「小野邸」です。
問屋役人や村年寄りを勤めていた小野平右衛門のもので、揚見世や蔀戸をもつ幕末の建物です。
醤油業を営んでおり、「八幡屋」という屋号を用いていました。
母屋改修の際には天井裏からミイラ化した鮒が見つかりましたが、これは1885年の淀川洪水の時に迷い込んだものと思われます。

 さらに歩いて行くと「枚方橋」と書かれた欄干が道の脇に建っています。
先ほど見た天の川の支流となる安居川が流れており、そこに架かっていた橋です。
そしてこの先は、駅前の賑やかなところです。
人が行き交うこの辺りで、歩き始めて早くも食事とします。
面白いラーメン屋があるはずです。

 お目当てのラーメン屋は、商業施設の1Fにあります。
ただし人が行き交う表通りでないため、入り口を見逃してしまいそうです。
Wチャーシュー麺と呼ばれるもので、チャーシューがこれでもかとラーメン丼を覆っているのです。
もちろん醤油味のスープも美味しく、ラーメン1杯で思いのほかお腹に溜まります。

 再び京街道を歩いて行きます。
駅前の雑踏を抜けると、道幅が狭くなり落ち着いた通りが続きます。
昔ながらの味噌屋が、店を出しています。
その先にある常夜燈の灯る角で南側の脇道に逸れると、そこに井戸があります。
ここが「下井戸」で、かつて存在していた上井戸、中井戸、下井戸のうち今でも残る唯一の井戸です。
この辺りの水は鉄分が多く飲料に適さないため、万年寺山に元井戸を掘りそこから3つの井戸に水を引いていました。
今では綺麗に整備され、予想していた古井戸とは似ても似つかぬ姿をしています。
井戸の手前にある地蔵さんが、この井戸が古くからあったことを物語っています。

 さらに先を進みましょう。
右手に少し開けたところが、公園になっています。
なにやら「枚方本陣跡」の看板が掲げられています。
枚方宿には本陣が1件、家老本陣が1件、脇本陣2軒で構成されていました。
その中の大名が泊まる本陣が、ここにあったのです。

 ここで京街道を逸れて北に1〜2分歩きます。
淀川の川辺にあるのが「淀川資料館」です。
ここでは淀川に住む生き物が展示されています。
水運で栄えた枚方ですが、その淀川がもたらす水害でも苦しめられました。
今の淀川になるまでの治水工事の説明がされています。

 さて再び京街道に戻ります。
左手に京阪電車の踏切が見えると、踏切を越え万年寺山に向かいます。
小高い山の上には万年寺跡があり、梅林になっています。
推古天皇の時代に、高麗の僧 恵灌がここからの眺めが唐の林岸江に似ていることから、この地を気に入り草庵を営みます。
これが万年寺のはじまりです。
しかし明治に入ってからの神仏分離で廃寺となってしまうのでした。

 万年寺跡の横の土地には、「御茶屋御殿跡」があります。
豊臣秀吉が1595年に淀川を臨むこの場所に建てたもので、江戸時代になると幕府の施設となります。
徳川秀忠や徳川家光もここに訪れています。
大阪から伏見までを遠望できることから、軍事上の要所でもあったのです。
ところが1679年に起った淀川宿の大火で、町はもちろんのこと御殿も全焼してしまったのです。

 またまた京街道から逸れてしまいました。
山を下りて再び街道に戻ります。
浄念寺を過ぎ暫く歩いたところに、「木南邸」はあります。
江戸初期に枚方宿の庄屋で問屋役人をしていた木南喜衛門の屋敷です。
木南家は幕末には金融業も営み、「くらわんか船」の茶船鑑札を所有している有力者でした。
「くらわんか船」とは、「餅食らわんか、酒食らわんか」と船客相手に飲食物を売りつける煮売茶船のことです。
木南家は、これらで富を膨らませていきました。
そして屋敷の裏には、「船番所跡」があります。

 そして歩くこと数分、今日街道沿いにある建物は「枚方宿鍵屋資料館」です。
枚方宿が京街道の陸路の要であったとともに、淀川を使った海上交通の要でもありました。
ここ鍵屋は船を待つための船待ち宿を営んでいました。
屋号を「鍵屋」と言います。
禁煙は料理旅館として、1997年まで営業していたところです。
母屋は1811年建築の町屋が保存されています。
一方の別棟は料亭だったところで、資料館になっています。
2階に上がると折り上げ格天井をもつ大広間があり、驚かされます。
63畳の大部屋なのです。

 「枚方宿鍵屋資料館」のすぐ裏は、淀川の河川敷が広がります。
そこに行ってみましょう。
西のひとつ目の角には、「西見附」の看板が掛かっています。
「東見附」から1.4km続いた枚方宿もこれで終わりです。

 一方の淀川ですが、かつての船着場も今は淀川河川公園となり、市民憩いの場となっています。
そんなところに「郵便屋の渡し碑」があります。
これまでの船での運搬に代わり、1877年に鉄道が開通します。
ところが川向こうであったため、ここで集めた郵便物を船で国鉄高槻駅まで運んだとされるのがこの場所です。

 淀川の水は、枚方の産業を潤してきました。
京街道の「西見附」の先には、水を使った公園である「水面迴廊」があるので行ってみることにします。
公園の入口にある「合同樋門跡」は淀川から引き込む水の水門にあたります。
北河内一帯の農業用利水として、そして洪水からこの地を守るために使われていました。
ここから水路に沿って公園が続きます。
「水面迴廊」の端には三十石船が置かれ、水辺の散歩に最適の場所です。

 されここからは「枚方パーク駅」から2つ先の「寝屋川市駅」まで京阪電車で移動します。
寝屋川も大阪湾に注ぐ淀川の通り道で、水運の盛んなところでした。
駅前にはいかりの形をした「寝屋川の船運碑」が建っています。
そして土地の名の通り寝屋川が町の中を流れています。
ただお世辞にもきれいな川とは言えない状況です。
寝屋川に並行して流れる水路が、もうひとつあります。
二十箇所用水路と友呂岐悪水路を1本にまとめたものです。
寝屋川一番街商店街を歩いていると、通路と両側の商店に隠れて気付かないぐらいです。
水路に降りて行くと、そこには「三枚板舟」が置かれています。
水運が盛んだった寝屋川の証が、残されています。

 ここからはひとつ隣の「萱島駅」を目指して、ひたすら南西に向かい歩きます。
途中に京阪電車の車両基地があり、昼間でも時折電車の入線があります。
車両基地を大回りに進み、「萱島駅」にやって来ました。
ここにある「萱島神社」に来たかったのです。
高架駅の下に、神社はあります。
元々あった神社ですが、京阪電車が複々線の拡張工事に伴い神社の境内と土地がかぶってしまいました。
そこで神社の上に駅舎を建てることになります。
ところが神社には樹齢700年とされる大きな楠があります。
この神社のご神木であることから伐採するわけにもいかず、考えられたのが駅を貫くという案でした。
実際ホームに上がってみると、そこには大きな楠がそびえ立っています。
駅の中に木が生えている珍しい場所です。

 淀川に沿って枚方、寝屋川を散策した1日でした。
ともに水運で栄え、特に枚方は京街道の宿場町として至る所にその歴史が残る町だったのでした。

 
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