にっぽんの旅 近畿 奈良 吉野

[旅の日記]

吉野 

 今回は、奈良県の吉野です。
桜で有名な吉野ですが、あえて混んでいない夏の時期を選んで車で訪れました。

 伊勢街道に沿って流れる吉野川を渡り、まずは「吉野神宮」に向かいます。
吉野の歴史は、後醍醐天皇の時代までさかのぼります。
南朝の後醍醐天皇が1339年に崩御した後、子である後村上天皇は、その像を吉水院に安置します。
それ以降、供養が行われてきましたが、1873年に後醍醐天皇社と改められます。
2年後には吉水神社と改称して後醍醐天皇を祭神とする神社となります。
1901年に官幣大社に昇格し、1918年に「吉野神宮」に改称しました。

 広くて立派な「吉野神宮」は、大鳥居から神門をくぐり、玉砂利を踏みしめて拝殿まで進みます。
拝殿からは、その先の総檜造の本殿を望むことができます。
本殿・拝殿・神門は、後醍醐天皇が京都の御所へ帰還することを熱望していたことから、京都の方角である北向きに建てられています。

 さて、車は吉野山を登っていきます。
ロープウェイlの吉野山駅を越えたところに、「黒門」があります。
金峯山寺の総門に当たり、大名であってもこの門をくぐる時には、槍を伏せ下馬して通行したという格式の高い門です。
真っ黒に塗られた木造の門です。

 その先には、「銅の鳥居」があります。
正式な名称は発心門で、山上ヶ岳までの間にある発心・修行・等覚・妙覚の四門のうちの、最初の門です。
高さ7.5mの銅製門で、大阪四天王寺の石の鳥居、安芸の宮島の朱色の両部鳥居と共に、日本三鳥居のひとつにも数えられています。
東大寺の大仏を造る時に、余った銅で造られたと言われています。

 その先に「金峯山寺」へと続く「仁王門」があります。
重層入母屋造で、1348年の足利尊氏率いる執事高師直の兵火で焼かれましたが、1455年再建されています。
大峯山へ逆峯入りする信者を迎えるために北を向いて建てられています。

 「金峯山寺」は、7世紀に修行者の役小角が開創したとされています。
本堂である「蔵王堂」は、東大寺大仏殿に次ぐ木造の大建築です。
何度もの消失にあいますがそのたびに再建され、現在の本堂は1592年に建てられた室町末期を代表する建造物です。
山岳信仰の象徴として、本尊には3体の蔵王権現像が祀られています。
68本の柱が立ち、内陣の2本の金箔張りの化粧柱は太閤秀吉が花見の際に寄進したものです。

 「金峯山寺」からは、吉野朝皇居跡である「金輪王寺」を眺めることができます。
1336年に吉水院に難を避けられた後醍醐天皇は、蔵王堂の西にあった実城寺を皇居として、寺号を「金輪王寺」と改めます。
後醍醐天皇は、悲運の生涯をここで終えます。
その後、徳川家康は吉野修験の強大な勢力を恐れて、弾圧政策で寺号を没収し元の「実城寺」に戻したうえで、直轄の支配下とします。
そして、明治時代には廃仏毀釈の波に呑まれて廃寺となります。
今は南朝妙法殿が建ち、皇居跡公園として整備されています。

 通りから少し入ったところに「吉水神社」はあります。
駐車場があるとのことでしたが、神社まで車を乗り入れることはできませんでした。
階段のうち左右のタイヤの両輪が通るところだけが、傾斜になっています。
いまにも車の底を擦りそうな場所だったからです。
「吉水神社」は元々「吉水院」と言われており、金峯山寺の格式高い僧坊でした。
明治時代には、後醍醐天皇、楠木正成、宗伸法印を祀る神社に改められます。
源義経が静御前と逃げのびてきたのが、ここです。
そして、太閤秀吉の花見の本陣となったのもここなのです。
初期書院造りの建物には、義経潜居の間、後醍醐天皇玉座の間、太閤秀吉花見の間があります。

 さてここで、一休みしましょう。
通りには柿の葉寿司と並んで目にするのが、葛餅の看板です。
昔ながらの造りの店に入ってみます。
エアコンがあるでもなく、畳に腰をおろしていると、店の人が扇風機をこちらに向けてくれます。
きなこのかかった定番の葛餅、そして涼しげな葛きりを黒蜜をくぐらせていただきます。
吉野の里のゆったりした時間が過ぎていくのです。

 その先の「勝手神社」の後方の袖振山は、大海人皇子(後の天武天皇)が琴をかなでられたとき、天女が袖をひるがえして舞い降りたという伝説があります。
しかし社殿は2001年に焼失し、今では境内に入ることもできませんでした。

 下千本、中千本と歩いてきましたが、ここから上千本の「吉野水分神社」に向かいます。
かなり狭く険しい山道を、車は進みます。
対向車が来ればすれ違うこともできず、ただひたすら車が来ないことを願うばかりです。
ひやひやしながら着いたところは、朱色の鳥居が迎えてくれます。
水の分配を司る天之水分大神を主神としていており、子宝の神としても信仰されています。
一段高くなったところには、左右を三間社流造りの建物に挟まれた中央に、一間社春日造りの本殿があります。
桃山様式の美しい本殿で、豊臣秀頼が再建したものです。
そしてその向かいに拝殿がある変わった配置になっています。
吉野は何度か来たものの、いつも中千本止まりで、今回はここまで来れたことだけでも満足です。

 人里離れた上千本から中千本へ、そして上市の町まで山を下りて帰路に着いたのでした。

 
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