にっぽんの旅 近畿 奈良 柳生

[旅の日記]

柳生の里 

 本日は、柳生十兵衛で有名な柳生の里を訪れます。
JR奈良駅から、奈良交通のバスに乗り込みます。
奈良公園を囲うように、公園の西側そして北側をバスは走ります。
やがて山道に差し掛かり、曲がりくねった道に揺られて、バスは進み続けます。
途中、人里に入るとバスは停留所に寄りますが、ほとんど人の乗降はありません。
再び山道を走ります。
50分も走った時でしょうか、柳生のアナウンスが流れます。

 確かに民家はありますが、人に出会うこともなく、村全体がひっそりしています。
バス停の前に古城山がありますので、まずはここを登ります。
丘の上に「剱塚」があるはずですが、いくら登っても現れません。
結局、古城山を登り切った山頂に、お目当ての「剱塚」はあったのです。
草をかき分け入って行き、塚までたどり着きます。
1331年に後醍醐天皇が側近の日野俊基と討幕の計画を進めていましたが、それが発覚し笠置山で挙兵することとなります。
この「元弘の乱」に際し、柳生永珍はこの古城山で天皇方が潜幸していた笠置山の南部を守ります。
柳生本城の外城として位置し、柳生の村を守ってきますが、後の1544年には筒井勢の攻撃をうけて落城してしまいました。

 山を下りて、いよいよ柳生の町に入ります。
土地の名が示すように、柳生十兵衛を代表する柳生一族の町です。
柳生一族の起源は、1331年の六波羅探題の北条仲時・時益の軍勢と南朝方として戦ったことで明らかになってきます。
戦いに勝った永珍は、後醍醐帝から大和国小楊生庄の領主となり、そのころ柳生氏と名乗り始めます。
そして戦国時代には柳生宗厳が松永久秀に仕えますが、その久秀が織田信長と争って滅亡し、代わって大和を守護した筒井順慶にも従うことがありませんでした。
さらに豊臣秀吉の太閤検地によって隠田の罪で2,000石の領地を没収されるなど、次第に落ちぶれていきます。
しかし、黒田長政の仲介により徳川家康と出会った宗厳は、家康の前で「無刀取り」を披露したことにより、兵法指南役に迎えられます。
既に66歳になっていた宗厳は、代わりに柳生宗矩を指南役として再び柳生家の息を吹き返したのです。
1600年の関ヶ原の戦いでは、家康の命を受けて大和の豪族の調略に従事します。
そして、その功績により旧領2,000石に加えて新たに1,000石を渡され、徳川秀忠の兵法指南役となります。
1614年の大坂冬の陣では徳川軍の大和国の道案内役を務め、翌年の大坂夏の陣では秀忠の身辺警護を務めるほどに、秀忠にも一目置かれる存在になっていったのです。
その後も快進撃は続き、ついには1万2,500石を領する大名まで上り詰めたのでした。

その柳生家の墓がある「芳徳寺」を訪れてみましょう。
朱色の欄干を有する「もみじ橋」を渡り、参道の坂道に差し掛かります。
またしても、急な上り坂です。
道脇の溝では蛇が身体をくねらして坂を登ろうと苦労しているのですが、枯葉で滑ってうまく登れません。
背筋が寒くなりながら、もたついている蛇を追い越して、足早に登り続けます。

 登り切ったところに「芳徳寺」はありました。
1638年に柳生又右衛門宗矩が、亡き父の石舟齋宗厳(石舟斎)の供養のため創建したもので、沢庵宗彭の開山により創建されたと伝えられています。
廃藩後は荒廃して山門や梵鐘も売却されてしまいますが、柳生家の末裔であり元台湾銀行頭取の柳生一義が資金を遺贈し、1922年に本堂が再建されます。
その後は、「芳徳寺」の再興が行われることになります。
山門の坂の途中にある正木坂剣禅道場もそのひとつです。
奈良地方裁判所として使用されていた興福寺別当一条院の建物を移築し、正面入口は京都所司代の玄関から移されたもので、柳生新陰流の剣道と座禅の指導が行われています。
また寺の奥には、80基余りの柳生家一族の墓も並びます。

 そんな柳生一族の繁栄を想いながら、次なる「天石立神社」に向かいます。
またしても山道を南に歩きます。
少し汗ばみますが、木立の中をゆっくり歩いて行くのは気持ちの良いものです。

 「天石立神社」は、戸岩山という小高い山の北麓に鎮座する巨岩を拝する神社です。
苔むした前伏磐、前立磐、後立磐の3つの巨石の前に、しめ縄が飾られています。
そしてその石に向かって拝殿が造られています。
この神社は本殿は持たず、瓦葺の簡素な拝殿だけが存在します。
柳生宗厳はこの神社で剣術の修行をしたといわれ、歴代の柳生家から崇拝されています。

 「天石立神社」の先を山の奥に入って行くと、「一刀石」があります。
大きな石の真ん中に真一文字にひびが入り、石が2つに割れています。
柳生宗厳が天狗を切りつけた時にそこに残ったのは、この石だったと言い伝えられています。
真実はともかく、この巨石が実に不思議な形で残っているものです。

 「一刀石」を見終えて、やっと人里に下りていくことができます。
田畑のある町に出て打竹川渡り、「旧柳生街道」を南へ歩いてみます。
旧街道とはいえ農道ほどの狭い道で、山に面して走っています。
5分ほど歩くと「ほうそう地蔵」があります。
花崗岩の巨石に疱瘡除けを祈願して彫られた地蔵菩薩立像があります。
またこの石には、1428年の正長の土一揆によって郷民が徳政令を勝ち取った喜びの文字が刻まれています。

 さてここが本日の最南端で、引き返して柳生の町を時計回りに巡ります。
公民館の向かいの敷地内に、「旧柳生藩陣屋跡」があります。
当時の石垣が残る程度で建物はありませんが、柳生宗矩が「芳徳寺」に続いて手がけたものです。

 その北側少し離れたところに、「八坂神社」があります。
もとは春日大社の第4殿比売退社を祀る「四之宮大明神」でしたが、柳生宗冬が1654年に大保町にある八坂神社の祭神素戔嗚尊の分霊を勧請して「八坂神社」と改めたと言われいます。
本殿は春日若宮の社殿を、そして拝殿は天岩戸神社から移したものです。

 時刻も昼時になりましたので、食事を取ることにします。
といってもバス停か、この近くでなければ食事をするところはありません。
「八坂神社」の鳥居の前の茶屋に入ることにします。
メニューには奈良を代表する「茶粥」があります。
思わずビールと茶粥を頼みます。
待っている間、餅の香ばしいに匂いが店に漂ってきます。
しばらく待っていると、注文の品が出てきました。
「茶粥」は古代米を使っており、赤米と黒米に茶が注がれています。
そしてその上に2個の餅が乗っている、素朴だけど上品な品です。
とろっとした餅が茶粥に適度な甘味を加えてくれる、納得のいく一品でした。

 この先は「柳生藩家老屋敷」を目指します。
石垣の先の門に続く坂道をもつ立派な屋敷があります。
ところが門を潜ろうとすると、何か様子が違うのです。
ここは一般の家で、あまりにも立派なので柳生家の屋敷跡かと間違ってしまいました。
しかし表札に記されていた苗字は、明らかに柳生家の末裔のお宅に違いありません。

 気を取り戻して、その数軒先にある「柳生藩家老屋敷」を訪れます。
ここは柳生藩家老の小山田主鈴の住居跡です。
石垣の坂を登り、長屋門を潜ります。
その先には主屋と庭園が広がっています。
主屋は記念館となっており、NHK大河ドラマ「春の坂道」の製作の様子と小山田家、柳生藩の資料が公開されています。

 バス通りまで戻ってきました。
その手前の畑の中に「柳の森」はあります。
気を付けてみなければ、通り過ぎてしまうところです。
この地「柳生」のもととなったしだれ柳が、手厚く保護されているのです。

 最後に行ってみたいところがあります。
バス通りを越えたところに、「十兵衛杉」なるものがあります。
柳生宗矩の子 柳生三厳が諸国漫遊に旅立つ時に植えたとされる杉で、いまは枯れていますが周りの緑に倒れずに残っておる枯れ木がひときわ目立っています。
柳生三厳よりも柳生十兵衛といったほうがピンとくるのでしょうが、片目に眼帯をした剣豪の主はあまりにも有名です。

 こうして、喉かな柳生の里での1日が終わりました。
静かなゆったりとした時間の中で過ごした、1日でした。

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