にっぽんの旅 近畿 奈良 宇陀

[旅の日記]

薬で栄えた宇陀松山 

 奈良県の榛原に、やって来ました。
桜井から近鉄電車で名古屋方面へ東へ進んだところで、過去に何度か来たことのある室生寺と長谷寺の間に位置します。
榛原駅からは、さらに奈良交通のバスに乗って移動します。

 バスに揺られて15分、終点の大宇陀に着きました。
道の駅大宇陀が、バス停です。
榛原を通る伊勢本街道と南側の吉野の紀州街道、和歌山街道をつないでいたのが松山街道で、ここ大宇陀は阿騎野宿と呼ばれる交通の要所だったところです。
伊勢や熊野からは魚や塩、ここ宇陀松山からは葛、油、薬などを運んでいました。
そんな大宇陀を歩いてみます。

 道の駅からはバス通りを越え、宇陀川を渡ったところに通る旧街道に進みます。
まずはこの集落の南端にあるのが「芳村酒造」です。
のちほどここの酒を買って帰ることになるのですが、玄関には酒蔵で酒ができたことを示す杉玉が吊るされています。
大和の国宇陀かぎろひの里で、稲戸屋源三郎が酒造りを始めたのは1872年のことです。
豊かな伏流水と酒に適した寒冷の気候が、美味しい日本酒を生んだのです。

 美味しい酒は「芳村酒造」だけではありません。
北に歩けば「久保酒造」があります。
久保勘兵衛が元禄時代に、この地で酒造りを始めました。
今は造り酒屋ですが、大正時代にはまだ珍しい自動車を購入し桜井と大宇陀間を走るタクシー会社を営んでいました。
これが奈良交通の前身です。
さて今の「久保酒造」ですが、酒蔵の隣に酒蔵カフェも併設してます。
本日のランチはスパゲティで、イタリアンでありながら利き酒もできる面白いところです。

 そして写真では「久保酒造」の奥に見えるのが「植村邸」で、1900年に建てられた町屋です。
「紙武」の屋号で、明治までは雑貨屋を営んでしました。

 ここから北上すると、古い街並みが続く歴史的保存地区に入って行きます。
最初に目につくのが、「千軒舎」です。
屋根に一部が高くなった登り梁の煙出しを持ちます。
かつては「内藤修精堂」という薬局だったところです。
今ではまちづくりセンターとして利用されています。

 左手には「大宇陀福祉会館」、そしてその隣には「盛岡家住宅」があります。
この地区では珍しい妻入造りで、大正時代の建物です。
昭和に入ってから料理旅館を創業し、その時に奥に離れを増築します。
「森藤」という屋号で商売をしていました。
その後は旅館を開業し、あらたに診療所を開院しました。

 その先の白壁の建物は、「森野吉野葛本舗」です。
この地方の名産の葛を扱っています。
そしてその隣の木の門の奥には「森野旧薬園」があります。
1729年に森野藤助が設けた薬草園で、「小石川植物園」と並ぶ日本最古のものです。
幕府の採薬使として大和を訪れた植村左平次に、藤助は採薬調査に幾度となく同行します。
藤助の功績を認めた幕府は、貴重な外国産の薬草の苗や種を与えます。
これが旧薬園の始まりで、民間の薬草園としては貴重な施設だったのです。

 「林家住宅」は、1814年に建てられた大型の町屋です。
屋号を「拾生屋」といい、通りに面して蔵が見えます。
蔵が表通りに並ぶのは極めて珍しいことです。

 先ほどの「森野吉野葛本舗」もそうであったように、この地は吉野葛で有名なところです。
店先には葛餅となる葛が、展示されています。
ここ「黒川本家」も屋号を「山之坊屋」といい代々葛の製造販売を行ってきました。
「吉野葛」と書かれた年季の入った木の看板が、長く続く商家の歴史を物語っています。

 それでは「更紗屋」の屋号をもつ「都司邸」の脇に参道が続く「神楽岡神社」に寄ってみます。
壬申の乱では、吉野を出た大海人皇子が宇陀に到着し、ここで加勢を得ることができたともいわれています。
天照大御神を御祭神にもつ神社です。
石段を上り石鳥居を潜ると石畳が左にへの字に曲がり、その先に拝殿があります
そしてここからは、大宇陀の町を一望できるのです。

 再び元来た道に戻り、北に進んでいきます。
そして次の通りで斜めに道は分かれ、ここで西へ1筋入って行きます。
そこにあるのが「好岡邸」です。
1890年ごろに建てられたもので、間口の広い建物です。
2階の虫籠窓が漆喰の白壁に整然と並んでいるのが印象的です。

 「万法寺」は、真言宗本願寺派の寺院です。
道に面した薬医門の上に、一段高く屋根瓦が積まれたところが太鼓楼です。
その奥には本堂の大きな屋根が見えます。

 先ほど1筋入りましたので、元の通りに戻りましょう。
東西を通る筋の突き当りに見えるのが「渡邊邸」です。
大型の町屋で、かつては宇陀紙の問屋を営んでいたところです。
藩札の原版や宿札が残っていると言われ、今では貴重な存在です。
ここも「林家住宅」同様に蔵をもつ豪邸です。

 「渡邊邸」に眼をとられていますが、この角には「川尾邸」があります。
建築は江戸末期と推定されるものです。
豆腐屋を営んでした「川尾邸」ですが、虫籠窓に特徴があります。
菱形の虫籠窓は、この地区唯一のものです。
この窓の隙間から、朝早くから豆腐の良い香りが漏れてきたことでしょう。

 さらに北側に歩いて行きましょう。
そこには「薬の館」があります。
かつての大宇陀は紀州街道と和歌山街道を結ぶ松山街道の要所であったことはお話ししました通り、葛や薬で栄えた町でした。
ここ「薬の館」も、1806年に薬を手掛け財を成した細川家の建物です。
正面には立派な看板が掛かっています。
銅板葺唐破風附看板には「人参五臓圓、天寿丸」との表記があり、販売していた腹薬が書かれています。
中に入ると、番頭さんが座っていた机、そしてその背後には薬棚があります。
壁には怖い顔をした人の看板が掛かっています。
これは薬の宣伝用のもので、いまでこそ商品のトレードマークとしてのキャラクタを普通に目にしますが、当時としては画期的なものだったそうです。
そしてこれこそが「藤澤樟脳」のキャラクタです。
そう、「藤沢薬品(現アステラス製薬)」は細川家の友吉が1894年に大阪の道修町で興した藤澤商店が前身なのです。
友吉は旧尼崎藩医藤沢新平の養子の養子となったことから、名を藤澤友吉と名乗っていました。
部屋を奥に入って行くと、さまざまな薬の看板が展示されています。

 「薬の館」を出て、再び古い街並みを歩いて行きます。
防火用水を備える「森田邸」の、薬に関わっていたと思われる建物です。
戸袋には薬の看板が貼られています。
「五龍圓」「延命丸」「小児丸」などの文字が読み取ることができます。
そういえばロート目薬やパンシロンで有名なロート製薬も、その創始屋 山田安民は隣村の出身です。
この地方の薬に対する熱の入れようが伺えます。

 さて江戸時代からの和風建築が多く残る中で、洋風の建物もあります。
「松尾邸」は、そのなかのひとつです。
1882年に郵便局を始め1913年に建てられたのが、この洋館風の建物です。
気付きにくいのですが、郵便局を表すように2階の窓のサンは通信マークをしています。
屋根はしっかりと瓦葺きです。

 その先にある「平五薬局」は、天保時代の1841年創業から続く薬局です。
薬で賑わったこの地には、和薬、薬種、合薬で計53件の薬屋がありました。
ところが、そのなかで当時のままで今に残る薬局は「平五薬局」だけです。

 「平五薬局」の角から東に進むと、「春日神社」があります。
ちょっと寄っていきましょう。
石畳の参道の両側には石灯篭が並び、参拝することを迎い入れてくれます。
ここはかつての「宇陀松山城」の城門にも当たるところです。
「宇陀松山城址」への通路があるのですが、残念ながら昨年の台風で木が倒れ通れなくなっています。
木を取り戻し先に進むと、朱塗りの「春日神社」が現れます。
1405年に足利義満が宇陀を春日大社に寄進したことから、この地に建立されました。
「宇陀松山城址」からの抜け穴がここにつながっているとも、伝えられています。

 ここで報告を西に変えて、「黒門」を見に行きます。
最初に交わる通りは、先ほど通った「好岡邸」や「万法寺」のあった通りです。
角には「伊勢辻の道標」が立っています。
すぐ
京大坂
はせ はい原
西大峰山山頂
すぐいせ道
はせ はい原
原 大坂
いせ道
吉光尼居御塚
の文字が刻まれています。
京大坂まですぐとは、「すぐ」の基準が今とはかなり違います。

 この一筋南には「旧福田病院」があります。
さきほどの「松尾邸」同様に、数少ない洋館です。
1925年に建てられたもので、外壁にはドイツ壁を意匠として取り入れています。
屋根瓦には「院」の文字が焼かれていると聞いたのですが、外から確認することはできませんでした。
当時としてはハイカラな造りであったこと、そして大宇陀での最新デザインであったことには間違いありません。

 再び「伊勢辻の道標」から西を目指します。
通りに面した建物が「植田邸」です。
屋号を「鍵屋」といい、絞り油の製造販売を行っていました。
江戸時代末期の建物で、格子で表が飾られています。
丸みを帯びた虫籠窓も独特で印象的です。

 そしてやって来たのが通称「黒門」と言われる「西口関門」です。
壁以外が黒く塗られているところから、地元民からはそう呼ばれていました。
先ほど行こうにも行けなかった「宇陀松山城址」が統治するこの町の門として当時からここにあったそのままのものです。
「宇陀松山城」は、秋山氏が居城として古城山に山城を築いたのに始まります。
当時は「秋山城」と呼んでいました。
1585年の豊臣秀長の大和郡山入部で秋山氏は宇陀から退去し、以後は伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種らが次々と居城としました。
大和郡山城や高取城とともに、「秋山城」は豊臣の大和国支配の要としての地位を築いてきました。
1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属した多賀秀種に代わり、福島正則の弟である福島高晴が入城することになります。
高晴は城の大規模な改修を行い、このころから「秋山城」を「宇陀松山城」と呼ばれるようになります。
ところが1615年に起こった大坂夏の陣において高晴が豊臣方に就いたことから、城は壊され廃城となりました。
「黒門」にはその歴史と、薬で栄えた城下町 宇陀を外敵から守るための門としての役目を物語っています。

 さてお腹もすいてきたので、食事のできるところを探します。
鍋焼きうどんと奈良が誇る柿の葉寿司がありましたので、そこで食事としましょう。
日本の薬の始まりの先駆者たちが出た宇陀松山の街並みを思い出しながら、柿の木の葉にくるまれた押し寿司をはがしながら食べます。
酒蔵が並ぶ宇陀ですから、自分へのお土産も当然日本酒です。
実に飲みやすい酒だったのです。

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