にっぽんの旅 近畿 奈良 西ノ京

[旅の日記]

平城京と西ノ京 

 本日は古都奈良の古代ロマンに浸る旅です。
降り立ったのは近鉄の西大寺駅です。

 駅から10分ほど東に向かったところに、「平城京跡」があります。
近鉄電車の車窓から見える朱色の建物がすっと気になっていたのですが、初めて訪れる機会ができたのです。
唐の長安に模倣して建造された「平城京」は、それまでの藤原京から710年に遷都されます。
その後の恭仁京や難波京への遷都により放置される時期もありましたが、745年の再びの「平城京」への遷都で政治の中心地として栄えることになります。
784年の長岡京への遷都されるまでに、東の東大寺にまでおよび寺院が整備されていきました。
再建された「第1次大極殿」が、広い都跡地の広場の北の中央に構えています。

 その東側に位置する「第2次大極殿」は柱の跡だけが残され、巨大な建物であったことをいまに伝えています。
さらに東側には宮内庁の「復元建物」があり、当時の様子を再現しています。
さらにそのそばには、当時の井戸が残されています。
ここから南側は、近鉄線を越えたはるか向こう側に「朱雀門」が見えるまで、広場が続きます。
訪れたのは冬でまだよかったものの、真夏に影ひとつない「平城京跡」には来れないなと思ったのでした。

 それでは線路向こうの「朱雀門」まで、1kmほどの散歩です。
1998年に復元された「朱雀門」は、「平城京」の南の端に位置する門です。
大内裏には12の門が造られ、「朱雀門」はそのうちのひとつです。
ここから先ほど見てきた「第1次大極殿」までを広い朱雀大路が走り、「平城京」の中央の通りとしてたいそうに賑わったと言われています。

 「朱雀門」のそばには「平城京歴史館」があります。
建物入口には遣唐使船が飾られています。
そしてここでは、平城京の当時の様子や、塔に渡った遣唐使の苦労がビデオや映画で説明されています。
第9次遣唐使で唐に渡った吉備真備や阿倍仲麻呂は、唐の進んだ政治を学ぶために長安に留学します。
鬼才の阿倍仲麻呂は難関の科挙に合格し高官に登ったがために、皇帝が仲麻呂を手放さず日本への帰国が許されませんでした。
それから35年が経過し、第12次遣唐使の時にようやく仲麻呂の帰国が許されます。
4席の遣唐使船のうち仲麻呂が乗る第1船は、暴風雨に遭って南方に流され驩州(現ベトナム)に漂着します。
そしてついに日本の地を踏むことなく、世を去った勇ましくとも悲しい物語です。
なお同じく何度もの日本への航海を試みながらも嵐で行く手を阻まれ続けた僧 鑑真は、既に目が見えなくなっていましたがこの時日本に辿り着くことができたのです。

 さて駅の名前にもなっている「西大寺」を、次に訪れます。
「西大寺」は、藤原仲麻呂の反乱の鎮圧を目的に764年に称徳天皇が金銅四天王像の造立を発願されたことに始まります。
寺の造営は、実に780年ごろまで続きました。
「平城京」の東の東大寺に対して、西の大寺に位置する寺院です。
東門から入ると、本堂に行くまでに四天堂、聚宝館を越え、さらに本土の先には愛染堂がそびえています。
創建当初は薬師、弥勒の両金堂をもち、その境域は48haにも及んでいたというから驚きです。

 ここからは、西大寺駅に戻り2駅先の西ノ京駅まで電車で移動します。
駅のホームには「薬師寺」の石碑があり、それを瓦ぶきの屋根が守っています。
その「薬師寺」は、駅から程近いところにありました。
先ずはちょっと高めの拝観料を払って中に入ります。
社会の教科書で名前は十分に知っていた「薬師寺」ですが、目の前にしたのは初めてです。
680年に天武天皇が、皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して建立されました。
中門から向かって左右に東塔と西塔の三重の塔がそびえたっています。
一見すると六重に見えるのですが、各層に裳階と呼ばれる小さな屋根を持つ三重の塔なのです。
歴史を感じさせる東塔に較べて、西塔は朱塗りのきれいな建物です。
そしてそれらの中央に位置するのが、金堂です。
1528年に西塔とともに戦火に飲み込まれたものを、1971年に再現したのです。
白鳳時代様式の壮大な建物です。
そして金堂の後ろには、伽藍最大の大講堂が構えていました。
これらが白鳳伽藍と呼ばれる敷地内にあります。

 それに対して、少し北側に歩いたところに、「玄奘三蔵院」があります。
唐時代にインドでの勉学を終えた僧侶 玄奘三蔵の遺骨を祀る意味で、1991年に建てられました。
六角形の変わった形の建物です。

 さてここから北に10分ぐらいのところに位置する「唐招提寺」を目指します。
バスがかろうじて通る細い通りを歩いて行きます。
「唐招提寺」は遣唐使船で日本を目指した鑑真が759年に建立した寺院です。
仏教者に戒律を授ける僧侶を探していた聖武天皇の目に留まったのが、鑑真だったのです。
やっとの思いで日本に辿り着いた鑑真は、戒律を学ぶ人たちのための修行の道場として「唐招提寺」を開きます。
山門を入ると、正面に金堂が構えています。
そしてその奥には講堂があります。
金堂から講堂方向には鼓楼と礼堂が並んでおり、礼堂には5月19日の「うちわ撒き」で使われるうちわの柄となる竹がびっしりと並べられ、乾かしています。
「うちわ撒き」で使われるうちわはハートの形をしている珍しいもので、苗代の虫除けや家内の災厄よけになると言われています。
礼堂の外側には校倉造の倉庫となる経蔵と宝蔵が並んでいます。

 奈良に芽生えた平城京、そこは唐の長安から習った律令国家でその唐に対して派遣された遣唐使、そして逆に唐から日本に渡った鑑真と唐招提寺。
すべてが一本の糸でつながったような気がします。
そんな古都奈良を巡った1日でした。

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