にっぽんの旅 近畿 奈良 大和郡山

[旅の日記]

大和郡山 

 本日は、奈良の散策です。
奈良といっても、寺院巡りではなく金魚を追い求めて奈良にやってきました。
そして今日の舞台は、大和郡山です。

 大和郡山は金魚の町です。
「金魚発祥の地」の看板を目にすることができます。
そして金魚は、大和郡山の一大産業なのです。
近鉄郡山駅の南西には、あちらこちらに金魚田が広がっています。
一見すると田舎の水田風景のようにも見えますが、あぜがコンクリートで妙に丈夫に作られています。
そしてよく見ると水を張った中には稲はなく、小さな無数の金魚が泳ぎまわっています。

 金魚は、約2000年前に中国南部地方で野生のフナの中から赤色のものが発見され、これを原種として改良を重ねてきたのが今日の金魚です。
日本には、1502年に中国から渡来したと言われています。
当時は貴族、富豪の珍奇な愛玩物として、飼われていました。
ところが、明治になると庶民の間での流行り始めます。
そして大和郡山市における金魚養殖の由来は、1724年に柳澤吉里候が甲斐の国(山梨県)から大和郡山へ入って来たときに始まると言われています。
幕末には藩士が副業として、明治維新後は職を失った藩士や農家の副業としての産業として、金魚が扱われるようになります。

 金魚田の中の細い道を歩いていくと、「郡山金魚資料館」が現れます。
ここでは、金魚の販売だけでなく、珍しい金魚が展示されています。
「金魚資料館」の中では、握りこぶし大の金魚が水槽の中を泳いでおり、それを無料で開放されているのです。
尾びれをなびかせて泳ぐ、如何にも高そうな金魚たちです。
一方外の水槽には、出荷を控えた小さな金魚が群れを成して泳いでいます。
夏祭りの時期の今が、年中で一番の書き入れ時です。
金魚すくいでおなじみの金魚ですが、こうして大量に育てられているのですね。

 また大和郡山市は、古代の大和国添下郡村があった所でもあります。
そして、戦国時代末期に筒井順慶が郡山城に拠り、その城下町が発達します。
1585年には豊臣秀長(当時の羽柴秀長)が郡山城に入り、郡山は大和国の中心都市として大いに栄えます。
江戸時代には一時奈良奉行所の管轄となり衰退します。
大坂夏の陣後は水野勝成が郡山に入り、それ以後松平忠明に始まる松平家、本多政勝に始まる本多家と続きます。
そして1724年には、享保の改革において甲府藩藩主であった柳沢吉里が転封され、明治維新まで柳沢氏が郡山藩藩主家として統治します。

 そんな「郡山城跡」が残っています。
「郡山城」は、羽柴秀吉の実弟である羽柴秀長の居城で、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心でした。
天守閣は現存しておらず、天守台の石垣だけが当時をしのんで残されています。
城内には、柳沢文庫が今も残り、追手向櫓と追手門が復元されています。

 そして、本丸跡には「柳沢神社」があります。
明治維新にて廃藩置県となった1880年に、旧大和郡山藩士族が吉保と吉里の遺徳を偲んで建てた神社です。

 そんな郡山城の城下町であった街並みを眺めてみましょう。
西観音寺町の「葉本家住宅」は両替屋を営んでおり、虫籠窓に記されている分銅の印からも当時を知ることができます。
明治初期の建築です。
その他、造り酒屋の「浅井邸」などの現存する古い建物も数多く残されています。

 紺屋町まで足を運びましょう。
小さな堀である紺屋川の地区は、美観保護地区としての「箱本館 紺屋」があります。
秀長の時代に造られた紺屋町は、藍染めを職業とした人たちが集まってできた町です。
江戸時代には150軒が、幅1mしかない紺屋川の周りに集まり、そのうち13軒の紺屋が染め上げた布をここでさらしていました。
柳澤氏より名字、帯刀が許された奥野家は、「柳宗」という屋号でここに家を構えていました。
美術品展示があったり、金魚ギャラリーがあったり、郡山のオアシス的な存在です。
もちろん、藍染めの体験も行われています。

 そこから、少し南の「源九郎稲荷神社」に向かいます。
神社参道と称した通りが、民家の前を抜けています。
この辺りには、昔ながらの建物がそのまま残されており、どれをとっても懐かしいすばらしい家屋ばかりです。
そして「源九郎稲荷神社」には、夏休みの子供たちが巫女さんに寄ってしゃべっている、庶民に密着した神社です。
まるで駄菓子屋さんに来たようです。
もっとも巫女さんといっても、子供たちにとっては近所のおあばさん(いや、おばあさん)なのでしょうが。

 「源九郎稲荷神社」にはさまざまの伝説が伝わっています。
兄頼朝に追われた源義経が吉野山まで逃げますが、その道中、佐藤忠信に化けた白狐が静御前を守り通します。
義経はその白狐の忠義に感服し、源九郎の名を稲荷に贈ったという忠臣狐伝説が社名の由来と言われています。
また別の話では、ある冬の夜、大和郡山帽子屋に婦人が綿帽子を3つ買いに来た。
代金を源九郎神社へ取りに来て欲しいと言われたが、神社では誰も心当たりがないという。
主人が不審に思っていると、境内から綿帽子をかぶった3匹の小狐が現れたという、狐伝説もこの神社に伝わっています。

 ここからは、柳町通りを南へ進みます。
さらには、1615年に豊臣方大野治房による郡山城攻撃が行われた際も、城下から中心へと火が迫ってきます。
これを見た洞泉寺住職天誉和尚が源九郎狐に祈願をしたところ、突然大雨が降り大火を免れたというのが、元和の鎮火伝説です。

入母屋造平入杮葺の本殿をもつ「郡山八幡神社」があります。
葺板の裏に「永正4年(1507年)再興」という墨書があり、それ以前に建てられたものと思われていますが、詳しい年月は判っていません。

 そして「郡山八幡神社」の入口には、「和田徳」があります。
黒漆喰塗の建物は大正初期のもので、堂々たる店構えからは豪商の面影が見え隠れします。

 さらに南には「花内屋」と名の入った建物があります。
「花内屋」とは旅籠の名前で、この辺が郡山城下でも最も賑わったところです。

当時の街の様子を残す、貴重な遺産となっています。
 郡山城とその城下町、それに金魚と、風情のある大和郡山を歩く1日でした。
平城京にも近く、まだまだ知らない個所が多い神秘的な町のようです。

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