にっぽんの旅 近畿 奈良 五條

[旅の日記]

江戸時代の町並み残る五條 

 本日は奈良県五條の旅です。
紀ノ川沿いを走るJR和歌山線の「五条駅」で降ります(JRの駅名は「五条」と表記します)

 「五条駅」はJR和歌山線にあっては有人駅のため、すべての扉が開きます。
駅を降り改札を過ぎると、その先にバスがUターンできるほどの駅前ロータリーがあります。
そして数件の旅館が続き、直進して下り坂をさらに進んで行きます。
国道24号線との交差点に出ると、右折して五條の中心となる本陣交差点に方向に進みます。

 ここで五條の歴史をおさらいしてみましょう。
南北朝時代、南朝のある吉野が陥落した1348年に、後村上天皇が賀名生(現在の五條市)に入って来て、一時的ではあれこの地に南朝が置かれることになります。
時代は変わり1600年には、関ヶ原の戦いで功績をあげた松倉重政がこの地に入り、「大和五條藩」が成立します。
これから訪れる五條新町は、大和五條藩が治める二見城の城下町として重政が町の振興に努めて来たところです。
江戸時代に入った1616年には重政は島原藩に移封されることになるのですが、そこでの圧政のために反感を食い後の島原の乱を招くことになります。
一方の五條は幕府の天領となり、1795年には「五條代官所」が設置されます。
その「五條代官所跡」の碑が、五條市役所に建っています。

 幕府が支配する五條の地は、紀の川が流れまた紀州街道が通って交通の便に恵まれ、南大和統治の中心地として栄えていきます。
ところが1863年に大きな異変が起こります。
「天誅組の変」が起こったのです。
これは尊皇攘夷派を唱える吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士「天誅組」が、「五條代官所」を襲撃した事件です。
そのころ全国的な勢力となっていった尊皇攘夷派は、朝廷にも強い影響力を持つようになっていました。
しかし幕府の力もまだ強く、それに反抗した「天誅組」が、代官鈴木源内を殺害し倒幕運動の烽火を上げたのでした。
「天誅組」は堺で挙兵し、五條に入るとその後は十津川に兵を進めます。
五條での「天誅組」の本陣は「櫻井寺」に置かれ、「五條仮政府」を名乗っていました。
「櫻井寺」の前には「天誅組本陣跡」の碑があります。
後に幕府軍の討伐を受けて壊滅したものの討幕の動きは全国に広まり、長州藩や薩摩藩を動かしてその後の日本の運命を位置づける1867年の大政奉還に至るのです。

 さてここからは、激動の五條における江戸時代のたたずみが残る五條新町に向かいます。
紀ノ川方向に南下すると、通りから1筋入った細い路地に面した「称念寺」「講御堂寺」「御霊神社」が並びます。

 その先には民家として日本最古の建物とされる入母屋造り「栗山家住宅」があります。
屋根に突き出た小窓が特徴的です。

 そしてその先に五條新町の通りの入り口があります。
ここから二見方向に、旧家が並ぶ五條新町が広がります。
五條新町入口の通りの反対側にも、風情のある家が並んでいます。
特に白壁が美しい「中邸」が目につきます。
元禄の大火以降の1704年に建築されたもので、放火対策が施されています。

 さていよいよ五條新町ですが、通りに入った最初に広大な敷地をもつ建物があります。
「栗山邸」は棟札に1696年の棟札がある建物で、五條の町屋にあっては珍しい単層の構造をしています。
その先も古い町屋が続きます。

 西川を越えその先には、右手に切妻造の「まちや館」があります。
吉田内閣の司法大臣、法務総裁、を経て保安庁長官を歴任した木村篤太郎の生家です。
中には木村篤太郎の手紙などが展示されています。

 ここで通りに沿って流れている紀ノ川(吉野川)に出てみます。
堤防の上に立つと、ゆっくり流れる紀ノ川を見渡すことができます。
春の温かい日差しを受け、川を眺めているだけでも楽しいものです。
この流れには鮎が生息しており、柿の葉寿司と並んで鮎料理もこの地方の名物です。

 それでは五條新町通りに戻り、さらに先に進みましょう。
民家を改修整備した「まちなか伝承館」があります。
現在のチラシに当たる店を紹介した手刷りの用紙が、展示されています。
その他にもこの辺りのゆかりの資料が並んでいます。

 さらに歩いて行きます。
五條の町に相応しくない高架の橋脚が見えます。
それも、通りと交差したところで、紀ノ川側がプッツリ切れたようになっています。
これは幻の鉄道「五新鉄道」の線路跡です。
当時の国鉄が吉野杉などの木材の輸送のために、五条駅と和歌山県の新宮駅を結ぶための新線の建設を1939年に始めます。
途中、第2次世界大戦で工事は中断しますが、戦後の1957年に再び再開します。
しかし鉄道の駅が少なく、多くの停留所を設置できるバスに較べて不便になることから、住民の反対運動に合います。
さらには近畿日本鉄道が吉野口駅から五條を経て阪本駅までの電化を表明し、南海電鉄も難波駅から橋本駅までの高野線をこの地までの順延する鉄道敷設計画を出したために、混乱が増してしまいます。
結局南海案は廃案になり、国鉄による鉄道建設も国鉄再建法の施行により1982年に工事が凍結してしまいます。
こうして五條は山間の町として、次第に時代の波から取り残されていくのです。
その甲斐もあり、今の趣のある町が残される結果となったのです。

 「五新鉄道」の高架跡の先には、古い町並みの通りの最終地点になります。
右手に「二見神社」、その先の左手には「西方寺」が並び、賑やかな通りもここまでです。
ここまで主だった建物を紹介してきましたが、五條は町全体が江戸時代を匂わせる古い町並みが残る場所なのです。

   
     
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