にっぽんの旅 近畿 奈良 大仏鉄道

[旅の日記]

大仏鉄道 

 奈良にあった幻の鉄道。
「大仏鉄道」なるものがあったことを、ご存知でしょうか。
加茂駅から大仏駅を経て奈良駅を結ぶ路線です。
今回は、その「大仏鉄道」の足跡を巡ります。

 旅のスタートはJR奈良駅です。
マスコットチャラクター「せんとくん」が迎えてくれます。
発案当初は気持ち悪いなど批判の多かったチャラクターですが、今では奈良の顔になっています。

 奈良駅では、早速腹ごしらえをして今後の散策に備えます。
お目当てのうどん屋が開店前でしたので、隣の餅屋できなこをまぶしたよもぎ餅を買って、時間つぶしをします。
この餅屋は杵で餅をつくのですが、通常の倍近い早業で餅つきが進みます。
気の合ったつき手と返し手の絶妙な駆け引きが、見物です。
餅は近くの「猿沢の池」の畔で、興福寺の五重塔を見ながら食べます。

 さて開店時間になったので、うどん屋に戻ります。
既に10人以上の列ができており、その後ろに並びます。
回転が早いうどんだと高を括っていたのですが、結局店に通されたのは1時間後のことでした。
「巾着きつね」は、大きめの揚げを巾着状にして、中にうどんを詰めたものです。
味の浸みた揚げを破りながら、うどんと一緒にいただきます。
ちょっと変わったうどんです。

 ここから北に向かった場所に、「大仏鉄道」の大仏駅があったところがあります。
今は小さな公園になっていますが、昔の人はここで降りて奈良の大仏をお参りに行ったことでしょう。
それでは大仏のある「東大寺」に向かうのですが、その途中にある奈良女子大学に立ち寄ります。
大学の正門前にあるピンク色の小さな建物は昔の交番で、今は観光案内所になっています。

 奈良女子大学の木製の正門、そしてその横の守衛室を抜けて、正面に見える「奈良女子大学記念館」に向かいます。
正門を同じうぐいす色と白の配色をした、2階建て木造の建築物です。
1909年に奈良女子高等師範学校の本館として建てられた洋館で、2階は講堂になっています。
年に2回だけ一般に公開され、ちょうど今日が公開日だったのです。
キャンバス内には、筆と絵具を持った多くの人がこの建物に向かい絵を描いています。

 「東大寺」は正門正面の道を真っ直ぐ進んだところにあります。
ちょうど南大門を入り、中門に差しかかる参道に出てきました。
奈良公園に住む鹿が、人懐っこく詰め寄ってきます。
また海外からの観光客も多く、外国の言葉が飛び交っています。
聖武天皇が国力を尽くして建立した寺だけあって、当時は東西それぞれに七重塔が配置されていました。
今も残る大仏殿は「東大寺」の金堂で、巨大な盧舎那仏像(大仏)が祀られています。

 先に進むための、「東大寺」からは「転外門」を潜ってバス通りに出ます。
三間一戸八脚門の形式をもつ堂々とした門で、奈良時代から残るものです。
ここからは「大仏鉄道」とは1筋東側になりますが、北に向かって歩きます。

 やがて、ロマネスク調様式の煉瓦造りの表門に出会います。
ところが周囲が煉瓦を積んだ塀で囲まれており、殺伐としています。
ここは「奈良少年刑務所」で、全国に7箇所ある少年刑務所のひとつなのです。
表門の先に見える本館も、煉瓦造りの綺麗な建物です。
元あった「奈良監獄」を近代化するために、西洋様式を取り入れて1908年に完成したのが今の建物です。

 その先には「般若寺」があります。
高句麗の僧 慧潅法師が、629年に創建された寺です。
当時はこの精舎を「般若台」と称していました。
735年には聖武天皇が平城京の鬼門鎮護のため、大般若経600巻を地中に納め伽藍を整えて「般若寺」と命名することになります。
通りからは鎌倉時代に造られた楼門を確認することができます。

 さらに進むと「奈良豆比古神社」があります。
771年に施基親王を祀ったことに始まり、一の鳥居 、二の鳥居を潜った先に一の鳥居があります。
一の鳥居の手前の通りに面したところには、掟を期した木板が並んでいます。
キリシタンを禁ずる掟や、偽の両替商を禁ずる掟、さらには毒薬等の偽薬販売の禁止の掟などが掲げられています。

 その先を進むと、梅谷口で「大仏鉄道」の軌道があった県道44号線に合流します。
ここには「大仏鉄道」が通っていたことを示す「鹿川隧道」があります。
ところが道路沿いに看板はあるものの、そのものがどこにあるのか判りません。
道路のはるか下の田畑を流れる農業用水路が、道路と交差するために掘られたトンネルのことです。
大回りして田畑に下り、煉瓦造りのトンネルを確認することができたのです。

 ここから先は県道44号線をひたすら歩きます。
「木津南排水池」は、カタツムリの殻のような螺旋状のようで頂点は逆向きの渦巻きになっている、奇妙な形をした建物です。
建物の前には「大仏鉄道」の蒸気機関車が描かれた看板が掲げられています。

 確かこの辺りには「松谷川隧道」があるはずなのですが、県道44号線自体が道幅を拡張し新しく作り替えられていたせいなのか、見付けることができません。
梅見台で左折し、「伊関川橋梁跡」の案内板を見ることができますが、昔の面影は残っていません。
ここから先しばらくは、山の方に向かって道は上ります。
「大仏鉄道」もここを通っており、同じ車窓の景色を見ていることでしょう。
周囲には竹林があり、大きくなってしまったたけのこを見ることができます。

 やがて視界が急に開け、新興住宅地に辿り着きます。
「赤橋」は鉄道軌道に儲けられた小さな橋です。
その先には「梶ヶ谷隧道」があり、周囲の低い土地にある田畑と行き来するための通路になっています。
煉瓦造りの立派なトンネルです。

 さてその先はこれまでの整備された道路とは離れ、車のすれ違うことのない山道になっていきます。
ここで「大仏鉄道」のことを、おさらいしてみましょう。
「大仏鉄道」とは、明治時代に加茂と奈良とを最短距離で結んだ約10kmの路線の愛称です。
1898年に加茂駅から大仏駅の区間が開業し、東大寺の大仏詣での多くの客を乗せて走る花形路線でした。
翌年には奈良駅まで路線を延伸しました。
ところが、1907年に加茂駅から木津駅を経て奈良駅へ通じる平坦なルート(現在の関西本線)が開通すると、次第に客足が途絶え黒髪山などの急こう配の難所を抱えた「大仏鉄道」は廃線になってしまいます。
営業期間はわずか9年の極めて短い路線で、幻の鉄道と呼ばれています。

 「鹿背山橋台」では、煉瓦を積んだ橋の土台が残っています。
ここから先は突然の三叉路が現れ、先に進むも山に向かって進む細い道となり、心細くなるばかりです。
歩き続けたせいで足にも疲れが出てき、膝に痛みが走り出しました。
携帯の電波は入っているし、まだ陽は高いので遭難することはない筈ですが…。
そんな時、どこからともなく牛の臭いがしてきました。
牧場の入り口に出たのです。
その先は田舎ながらも民家が並び出し、人の気配を感じて歩くことができたのです。
高田東口では、いよいよバスの通る道路に出ます。
膝の痛みも限界に達してきたので、ここからJR加茂駅までの少しの区間はバスを利用します。
そう、いつの間にか京都府に入っていたのです。
タイミングよく来たバスに、早速飛び乗ることができました。

 本日の散策の終着点である京都府の加茂駅には、「ランプ小屋」があります。
1897年の加茂駅開業時に建てられたもので、オランダ積みの赤レンガ造りの建物です。
機関車の前照灯や客室の照明用に使用されていたランプに使う石油を、ここで保管をしていました。
この建物は今も使われています。

 「大仏鉄道」を追っての旅も終わりました。
最初に奈良の町でうろうろしすぎたのが、最後に響いたようです。
ちょっと厳しめの今回の旅でしたが、天候には恵まれて春の晴天のもとを気持ちよく歩き回ることができたのでした。

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