にっぽんの旅 近畿 京都 哲学道

[旅の日記]

東山は哲学の道へ 

 金閣寺と並ぶ京都の古刹 銀閣寺を訪れてみます。
京阪電車の三条駅から地下鉄東西線に沿って、三条通りを東に進みます。

 三条駅から地下鉄東西線で1駅西の東山駅に進みます。
そして東山駅からは北に進路を変えます。
やがて、とてつもなく大きな鳥居が現れます。
「平安神宮」の表参道の朱色の大鳥居です。
鳥居がまたがる道を車が通りますが、バスが小さく見えます。

 そして鳥居の右手には「京都市美術館」があります。
1933年に竣工し建物は、公立美術館としては日本で2番目の歴史あるところです。
淡いやまぶき色の煉瓦で覆われた壁でありながら、瓦屋根をもつ建物は和洋混在の造りです。
ここでは明治以降の絵画や彫刻、工芸品などが展示されています。

 先を歩いて行くと、「平安神宮」の「応天門」が姿を現します。
門を潜ると広場になっており、その先にの右手には「蒼龍楼」、左手には「白虎楼」をもつ大きな「大極殿」があります。
実はこの「平安神宮」は、平安遷都1100年を記念して桓武天皇を祀るために1895年に平安京の一部が復元された、比較的新しいものなのです。
当時の桓武天皇は、平城京の規模が小さく日本の国都としてふさわしい土地を探していました。
最初はまず長岡に都を移したものの、最終的にはこの地を選び794年に平安京に遷都することになりました。
以来京都は明治に至る1000余年の間、日本の国都として栄えてきたのです。

 「平安神宮」の北側を東西に走る丸太町通りを東に進みます。
左手の高台に緑の木々が見えます。
浄土宗の大本山で、「金戒光明寺」で1175年に法然が開いた寺です。
比叡山の黒谷を下り、この辺りで石に腰かけたところ、その石から紫の雲が立ち上り、西の空には金色の光が放たれたと言います。
法然がここに草庵を結んだことが、この寺の始まりとされています。
法然から本房を与えられた信空はこの地に住み、辺りを黒谷と呼ぶようになりました。
「金戒光明寺」も「くろだにさん」と呼ばれて親しまれています。

 「金戒光明寺」の丸太町通り沿いには、「岡崎神社」があります。
桓武天皇の平安遷都に際し、平安京の四方に建立された社のひとつで、陽の出ずる都の東(卯の方位)に鎮座する事から東天王と称されています。
本殿前の左右には、狛犬ならぬ狛うさぎがおり、頭をなでることで縁結び・夫婦和合の祈願となると言われています。

 琵琶湖疏水まで東に進みます。
「若王子神社」は、通りの外れにひっそりと佇んでします。
1160年に後白河上皇が紀州熊野権現を勧請して創祀した永観堂の守護神で、京都三熊野のひとつです。
ここは熊野御幸の起点でもあり、後白河上皇は34回も参拝したと言われています。
また裏山には、同志社創立者新島襄の墓があることでも有名です。

 ここからは琵琶湖疏水に沿って北に進みます。
疏水の脇は歩道になっており、これが有名な「哲学の道」です。
哲学者西田幾多郎が散策に訪れ思索にふけたことから、この名が付いたとされています。
ここから1.5kmの道のりを巡って行きます。

 住宅地の脇からひっそりと延びるのは「大豊神社」の山門です。
887年に宇多天皇の病気平癒祈願のために藤原淑子が勅命を奉じた神社で、後には応神天皇と菅原道真が合祀されます。
境内にある大国社には、変わった狛犬があります。
先ほどの「岡崎神社」は、狛うさぎだったのですが、こちらは狛鼠なのです。
社を守る狛鼠の愛らしい姿をみると、心が癒されるのです。

 「哲学の道」を北に進み、右側の山手方向に逸れてみます。
ここには「霊艦神社」があります。
後水尾上皇が、皇女浄法身院宮宗澄尼(じょうほっしんいんのみやしゅうちょうに)を開基として創立した神社で、円成寺址に1654年に建てられました。
椿の時期など限られた時期しか公開されておらず、当然訪れた時には門が固く閉ざされていました。

 そこから北に歩いて数分、「安楽寺」があります。
春と秋の花の時期に併せて一般公開が行われ、庭園をはじめ、本堂ならびに書院を解放されます。
訪れた時は葬儀の真っ最中。
門は空いているものの、中に足を運ぶには気が引けてしまいました。
厳かな寺の雰囲気は、十分にアジア\和うことができます。

 さらに北に進み、「哲学の道」と再び交わる辺りに「法然院」があります。
鎌倉時代に、法然が弟子たちと共に六時礼讃行を修した草庵が「法然院」のはじまりです。
藁葺の山門には苔がむし、京都の寺の良い趣を出しています。
しかし「法然院」には、悲しい過去があるのです。
1206年の後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家します。
これが上皇の逆鱗に触れ、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は荒廃の一途をたどります。
1680年に知恩院第38世萬無和尚が、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂和尚によって現在の伽藍の基礎が築かれたのでした。
境内では都会の騒音も聞こえて来ず心洗われる場所で、庭園を見つめてしばらく佇んでしまったのでした。

 さて目指す「銀閣寺」はこの先です。
次第に周りが騒がしくなってきました。
観光客の姿が増え、「銀閣寺」の参道には土産物屋が並び、それに修学旅行生が加わり都会並みの賑わいです。
参道の先に「銀閣寺」はありました。
正式名を「慈照寺」といい、室町幕府8代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿が起原とされています。
義政は、彼の生涯をかけ美意識すべてを投影した東山文化の真一大山荘だったです。
「銀閣寺」は金銀の文字によりしばしは「金閣寺」と比較されます。
実は、時を同じくして義満により創建された「金閣寺」とともに、京都五山第2位に列せられる相国寺の塔頭寺院なのです。

   
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