にっぽんの旅 近畿 京都 東山

[旅の日記]

島原から東寺まで 

 京都にやってきました。
本日は京都駅周辺を、ブララしてみます。

 さすが京都だけあって、京都駅前から見て回るところが目白押しです。
まずは京都駅の北側、「京都タワー」の先にある「東本願寺」を訪れます。
「東本願寺」は真宗大谷派の本山で、「お東さん」の愛称で親しまれています。

 1263年に親鸞聖人が亡くなると、京都東山の大谷に石塔を建て遺骨を納めます。
しかし聖人の墓所があまりにも簡素なものであったため、覚信尼や門弟達が1272年に、大谷の北側の吉水に六角の廟堂を建て、親鸞聖人の遺骨を移します。
これが大谷廟堂です。
室町時代になると、蓮如上人によって浄土真宗は民衆の間に広く深く浸透していきます。
しかし蓮如上人の教化は比叡山を刺激し、1465年の上人51歳の時に大谷本願寺は比叡山の衆徒によって破却されてしまいます。
難を逃れた蓮如上人は近江を渡り歩いた末に、1471年には越前の吉崎に赴かれます。
上人の説く平等の教えは、門徒たちを奮起させついには一揆を起こすに至ります。
世には織田信長が天下統一を行い、大きな社会勢力をもつ本願寺が障害になってきます。
11年にもわたる石山戦争の後、一旦は紀伊の鷺森に移り住みます。
紀州に退いた顕如に対して、これを拒んで楯篭りを続ける異母兄弟の教如との間には、対立が起きてきます。
その後は豊臣秀吉の寺地寄進を受けて、本願寺は大坂天満へと移ってきます。
秀吉の京都市街経営計画に基づき、本願寺は再び京都に戻ることになりますが、阿弥陀堂と御影堂が完成した顕如上人は1592年に帰らぬ人となってしまいます。
その後の1602年に教如上人は徳川家康から七条堀川に寺地を寄進され、ここに御堂を建立します。
このころから、本願寺の分裂が決定できなものとなってきます。
1603年には上野厩橋(現前橋市)の妙安寺から「親鸞上人木像」を迎えたもうひとつの本願寺が開かれます。
七条堀川の本願寺の東側に当たるため、「東本願寺」と呼ばれるようになります。
それに対して准如が継承した七条堀川の本願寺は、「西本願寺」として区別されることになったのです。

 「東本願寺」から西に10分ほど歩いたところに、「西本願寺」はあります。
浄土真宗本願寺派の本山で、山号を龍谷山と言います。
「東本願寺」が「お東さん」と呼ばれていることに対し、「西本願寺」は「お西さん」の愛称で呼ばれています。
本願寺住職が、浄土真宗本願寺派の門主となっています。
角にある鼓楼からは、堀に沿って「西本願寺」の長い土壁が続きます。
星に沿って歩いていると、「阿弥陀堂門」があります。
門を入るとそこには阿弥陀堂があります。
ひっそりとした「東本願寺」に較べ、「西本願寺」には参拝客で境内が埋め尽くされています。
阿弥陀堂の向かって左手には、御影堂があります。
その御影堂の中には書院があり、南側の対面所と北側の白書院から成ります。
下段のみで162畳、上段を含めると203畳といった途方もない広さです。
襖や壁の障壁画は本願寺お抱え絵師の渡辺了慶の作とされ、鮮やかで豪華な筆使いが目を引きます。
頻繁に訪れる京都ですが、ここに来たのは実は初めてだったのです。
今まで見逃していたことが惜しかったくらいに、これは一見の価値があるところです。
そして御影堂正面に建つ御影堂門も、木の質感と金色の飾りが眩しい「西本願寺」を代表する門です。

 それではここからさらに西に向かい、観光客が訪れない京都を巡ります。
やがて見えてくるのは、道路の真ん中にそびえる門です。
これは「島原大門」で、これから先が花街 島原が広がっています。
日本の公娼地は足利義満が傾城町に開いたのが始まりとされています。
豊臣秀吉は二条柳町を開設し、江戸時代になると六条付近に移されます。
これが「六条三筋町」と呼ばれるものです。
1641年にはさらに朱雀野への移転が命ぜられ、以後この地を島原と呼ばれる「西新屋敷」の出現です。
移転があまりにも騒々しく、数年前(1637年に勃発し翌年終結)の「島原の乱」を思い出させたことから、この地は通称「島原」と呼ばれるようになりました。

 それでは、島原に今も残る「角屋」を訪れてみましょう。
いまでは「角屋もてなしの文化美術館」となっており、当時の様子を見ることができます。
「角屋」は、揚屋のひとつです。
揚屋とは今でいう料亭のことで、太夫や芸妓は置屋から派遣します。
「お茶屋」より格上の存在で、高級遊女を呼べる店なのです。

 花街の島原ですが、江戸の吉原とは大きく違います。
島原が歌舞音曲を伴う遊宴の町で、歌舞練場を備えて女性の出入りも自由だったのに対して、吉原は塀で囲った町の中に遊女を閉じ込めて、町の出入りには厳しい管理がされた遊郭でした。
そのため町から逃げようとした遊女が放火をして、火災が度々起こっていました。
島原はといえば放火による火事は1件もなく、唯一失火による火災があっただけです。
そんな「角屋」の奥には、大座敷の「松の間」があります。
立派な襖絵に囲まれ、縁側からは「臥龍松の庭」と呼ばれる日本庭園を臨むことができます。

 「角屋」を出て西に数分のところには、「島原住吉神社」があります。
その鳥居の脇に、「島原西門」を示す碑が建っています。
東の門は先ほど通ってきた「島原大門」ですが、西門はここにかつては門があったことを示す碑が残されているのです。

 ここからは「東寺」に向かって南下します。
10分ほど歩いたJRと交差するところに、京都の名所として新たに加わった「京都水族館」があります。
鴨川と由良川に住む生き物や、アザラシ、ペンギンが飼われています。
そして水族館の前にある「梅小路公園」には、「京都市電」が展示されています。
近代的な「京都水族館」に較べ、対照的にレトロな「京都市電」ですが、何故か調和しています。
公園では春の日差しに誘われて、多くの親子連れが広場を走り回っています。
ほのぼのとするひとときです。
そしてそばには「京都鉄道博物館」があり、梅小路機関区の蒸気機関車も見ることができるのです。

 さてJR京都線と東海道新幹線の高架下を潜って、餅屋を眺めながら「東寺」に到着します。
「東寺」は、東寺真言宗の総本山の「教王護国寺」です。
平安京遷都後まもない796年に藤原伊勢人が建立したのが「東寺」です。
平安京の正門にあたる羅城門には東西に「東寺」と「西寺」寺院が建立され、これらの寺院はそれぞれ東国と西国を守る国家鎮護の寺としての役割がありました。
そして真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を給預されたのが823年のことです。
この時に、「東寺」は真言密教の根本道場となります。
ちなみに「西寺」は、守敏に給預されました。
一旦は勢いを失う「東寺」ですが、鎌倉時代には弘法大師信仰の高まりとともに再び注目を浴びるようになります。
それからも後醍醐天皇や足利尊氏などの加護を受けて、「東寺」は守られてきます。
1486年の火災では寺の多くを焼失してしまいますが、豊臣家や徳川家などの援助によって金堂と五重塔が再建されてました。
金堂、講堂、大師堂と五重塔が、残されています。

 さて京都の町を巡った後は、「べた焼き」を頂くことにします。
昔から京都の下町で食べられてきたものです。
お好み焼き風の食べ物で、薄く焼いた生地の上に具材を乗せて焼きます。
たっぷりの九条ネギが、京都らしい食べ物にしてくれるのです。

 食事を終えて外に出ると、昼に見えるていた「京都タワー」が夜空に浮かび上がって見えています。
東京オリンピックが開催された1964年に、京都のランドマークとして建設されました。
昼とは違った神秘的な光を放っています。
こうして、京都の夜は更けていったのでした。。

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