にっぽんの旅 近畿 京都 嵯峨野

[旅の日記]

洛西の嵯峨野 

 本日は京の洛北を散策します。
その開始は嵐山からです。

 嵐山には桂川に架かる「渡月橋」があります。
承和年間(834-848年)に僧 道昌が架けたのが始まりで、橋の上空を月が移動していく様を見て「渡月橋」と呼ばれるようになります。
川辺では人々が河に向かって腰をおろしてのんびりとしています。
それでは橋の南側の阪急嵐山駅から北側に向かって、155mの橋を渡ってみます。
人気の観光地とあって、いつ来ても人でいっぱいです。
思うように前に進むことができないのですが、あせらず白波を立てて流れる桂川の流れを楽しみながら歩きます。
橋を渡り切った先は土産物屋や芸能人の店が並んでいるのですが、あえて左に折れて桂川の上流、保津川の溜まりを見て回ります。
ここは激流を手漕ぎ船が下ってくる保津川下りの着船場です。
それ以外にも、渡月橋の周りを優雅に回る館舟も行き交っています。
水辺に佇み、しばらくはその様子を見ることにしましょう。
館舟には行商の船が近づき客の様子をしばらくはうかがって、客が興味を示さないならスーッと離れて次の舟に鞍替えをする風景が、見ていて飽きません。
川の向こうの嵐山には、所々に桜の木がピンクに色付いており、きれいな光景が広がっています。

 そうだ京都に来たからには、これを食べないわけには帰れない、とムクッと立ち上がり店を探します。
苦労することもなくその食べ物屋は見つかりました。
京都名物と言えば「湯豆腐」ですね。
豆腐なのにどうしてこんなに高価なの、と思うぐらい鍋に入れて煮立てるだけで上品な食べ物になってしまいます。
でも美味しいものですから、文句は言えません。
絹ごし豆腐が、口の中でトロリと崩れていくのが判ります。
またまた昼からビールを飲んでしまいました。

 さて豆腐で気をよくしたのか、世界遺産の「天龍寺」に向かいます。
「天龍寺」の庭園は有名ですが、ここは何回も訪れているところ。
前は紅葉のシーズンに紅葉を見に来たばかりなので、今日は先を急ぎます。

 「天龍寺」まで来て、ぜひ訪れてみたいのは、その裏にある竹林です。
「竹の小径」は竹林の中をトロッコ嵐山駅まで青々とした竹に囲また道が続き、本来は静かなところです。
ところが、バスで乗り付けたであろう外国人環境客とマイカー客とで、道はごった返しています。
そんな中に「野宮神社」はあります。
伊勢神宮の斎女にも選ばれた皇女が、心身を清めたとされる社です。
縁結びの神様と言うこともあって、若いカップルが目につきます。

 トロッコ嵐山駅を過ぎたころには、さっきとは打って変って人もまばらになってきます。
小倉池のたもとに小さな社屋が見えます。
ここは「御髪神社」で、日本で唯一の頭と神の神社という珍しいところです。

 さらに進むと、「常寂光寺」があります。小倉山山麓に建つ日蓮宗の寺です。
多宝塔が有名で、本殿は桃山城の客殿を移築したものです。
今回訪れたのは桜の時期ですが、秋になると紅葉がきれいな寺です。

 先を進みましょう。
「有智子内新王墓」があります。
「有智子内新王」は嵯峨天皇の第8皇女で、平安時代の皇族です。
そして今は、この嵯峨野の地でひっそりと眠っているのです。

 その隣に、藁葺屋根の建物があります。
「落柿舎」で、松尾芭蕉の門人 向井去来が暮らした草庵です。
芭蕉もここに滞在中の1691年に「嵯峨日記」を著したところです。
「落柿舎」とは、庭に40本の柿の木がありその柿を売る契約をしたのですが、台風のために一夜にしてすべての柿が落ちてしまったことが名前の由来です。

 その先に「二尊院」があります。
釈迦如来と阿弥陀如来の2体の本尊を祀っていることから、その名を「二尊院」と呼んでいます。
この寺は、平安時代初期に嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立しました。
室町時代に起こった応仁の乱では堂塔伽藍が全焼するものの、三条西実隆によって1521年に本堂と唐門が再建されました。
本殿まで続く広い参道は、秋になると紅色に色付き「紅葉の馬場」と言われています。

 それでは嵯峨野の中心地から大きく外れて、北西方向に位置する「化野(あだしの)念仏寺」を訪れます。
参道にはすだれと提灯がかかった和風の建物を模った土産物屋が並び、「化野念仏寺」への気持ちを盛り上げてくれます。
「化野念仏寺」は石段の入り口を登って入ります。
空海が811年に五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したことに始まります。
後に法然が念仏道場を開き、そこが念仏寺となります。
本堂は1712年に、寂道により再建されたものです。
境内には、8000体もの石像が中央の石塔を向かってずらりと並んでいる様は圧巻です。
これは1903年に、化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものです。
境内奥には墓に続く道が竹林になっており、「天龍寺」近くのそれとはまた違った趣があります。

 さてもと来た道を引き換えし、「二尊院」の前まで戻ります。
ここからは「清凉寺」に向かって歩きます。
中国の宋に渡り五台山を巡礼した東大寺出身の僧 「然(ちょうねん)が、1体の釈迦如来像を謹刻させます。
これはインドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、釈迦に生き写しとされるインド〜中国〜日本の「三国伝来の釈迦像」として崇められてきました。
その後帰国した「然は、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、山麓にこの釈迦如来立像を安置する寺を建立することを考えます。
これには別の意味が込められており、京の東北に位置する比叡山延暦寺と対抗して、西北に「清凉寺」を建てようとしますが、延暦寺の反対に合います。
弟子の盛算(じょうさん)は「然の意思を継ぎ、棲霞寺の境内に建立したのが「五台山清凉寺」です。
壮大な山門を潜り抜けると、正面に本堂が、右手には輪蔵、そして左手には多宝塔が、境内を埋め尽くしています。

 嵯峨野の散策も終盤に差し掛かってきました。
京の豆腐屋を越えて向かったのは、本日の最終地点でもある「大覚寺」です。
794年に桓武天皇は京都に平安京に遷都します。
後に即位した平城天皇の頃は、平城上皇の平城古京への復都や薬子の乱などで政局は動揺します。
809年に即位した嵯峨天皇の時代に、ようやく平安京は安定をみることになります。
嵯峨天皇は、都の中心より離れた葛野の地(現在の嵯峨野)を愛し、檀林皇后との成婚の新室である嵯峨院を建立します。
これが「大覚寺」の前身である離宮嵯峨院です。
また唐の文化を伝えた僧侶達にも深い思いを寄せ、弘法大師 空海に高野山開創の勅許を出したのもこの時なのです。
また「大覚寺」は、嵯峨天皇に始まるとされる華道嵯峨御流の家元でもあります。
境内には、大きな鉢に豪快に活けられた嵯峨御流のいけばなが飾られています。
そして、ここは桜の名所でもあります。
廻廊を渡り境内の東側に広がる大沢池の見えるところまで移ります。
池の周りには、周囲1kmに渡って桜並木があり、訪れた時はちょうど満開の時でした。

 桜の時期、周りの景色を眺めながらのんびり歩いた嵯峨野の1日でした。

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