にっぽんの旅 近畿 京都 宮津

[旅の日記]

城下町の宮津 

 福知山から京都丹波鉄道に乗り、着いたのが「宮津」です。
以前「天橋立」をレポートしましたが、その時は車での移動でした。
今日は電車でやってきましたので、ゆっくりと宮津の街を見て回ります。

 宮津駅から真直ぐ進むと、大手川に出ます。
そこに架かる大手橋の手前に、「一色稲荷」があります。
創建は不明ですが1説によると、1582年に丹後守護職当主の一色義清が細川藤孝の軍に敗れ自刃した時に、その祟りを恐れて祠を建立したのが「一色稲荷」の始まりと言われています。

 その細川藤孝(幽斎)にまつわる場所を、次に訪れます。
国府のあった宮津は、古くから丹後の中心地でした。
当時この付近には国主 一色氏による支城や砦が、至る所に築かれていました。
それを織田信長の命により、1579年に細川藤孝と明智光秀が丹後国に侵略し、一色氏は滅亡してしまいます。
その功により信長は細川藤孝に丹後国を、明智光秀には丹波国が与えられました。
藤孝はここに「宮津城」を築き、息子の忠興の居城となります。
1600年の関ヶ原の戦いでは光秀が徳川家康の打倒を宣言し豊臣につきますが、忠興は徳川方に味方します。
しかしこのことが、丹後細川領が西軍から攻撃を受けるきっかけとなったのです。
結局関ヶ原の戦で勝利した家康率いる東軍は、細川家が豊前国転封となり、代わりに丹後国一国12万3千石の恩賞を受けた京極高知が丹後に入ります。
高知は丹後の中心地を舞鶴から再び宮津城に移し、「宮津城」も改修します。
その後に丹後を宮津藩、田辺藩、峰山藩の3つに分割します。
京極高広が宮津藩主になりますが、その後は目まぐるしく藩主が入れ替わり、1758年に入封した松平資昌においては7代続きましたが、ここで明治維新を迎えることになりました。

 「宮津城」は今こそ存在しませんが、その痕跡がありますので見に行きます。
大手川には「宮津城」の城壁を復元した白壁が川辺に続きます。
そしてその先の宮津小学校にあるのが、「太鼓門」です。
「宮津城」で使われていたものを移築したもので、宮津小学校があるのは1875年に設立され9年間続いた私立学校「天橋義塾」の跡地になります。
今に残る「宮津城」の数少ない遺構です。

 ここで大手川に架かる中橋を渡ります。
対岸にある屋敷が「大村邸跡」です。
元々は江戸時代に藩医であった小谷仙庵が邸宅としたところで、小谷家が峰山に移った後は旧藩士である大村政智によって受け継がれました。
天橋義塾の株主でもあり、立憲政党に加盟するなど自由民権運動に関心を持っていた人物です。
道路からは今も残る長屋門を眺めることができます。

 その先の小さな公園「大手川ふれあい広場」に、銅像があります。
明智光秀の三女である細川ガラシャの像です。
「カトリック丹後教会宮津聖堂」を背にして立っています。
1563年に光秀の子として生まれた珠は、父の主君である織田信長の発案により細川藤孝の子 忠興に嫁ぎます。
1582年に発生した本能寺の変で光秀は信長に反旗を翻すも、その後の山崎の戦いで討たれ、明智家は謀反人の一族として世間より蔑視されます。
信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の勧めもあり、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻します。
そこで出会ったのが、キリスト教です。
時は秀吉が「バテレン追放令」を出すことになります。
それを知った珠はイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父に頼み、洗礼を受けます。
広く知られているガラシャという名前は、その時珠が受けた洗礼名です。
徳川家康に従い1600年の上杉征伐に忠興が出陣した際に、西軍の石田三成が大坂玉造の細川屋敷にいた(珠改め)ガラシャを人質に取ろうと攻めてきます。
ガラシャは自害をしようとしますが、自殺が禁じられているキリスト教です。
ガラシャは家老の小笠原秀清に介錯させ屋敷にも火を付けるといった、壮絶な最期を遂げたのでした。

 それでは、ここで昼食とします。
少し浜の方に移動し、宮津の名物である「カレーやきそば」を食べに行きます。
細い路地にお目当ての店がありましたが、美味しいのと昼時が重なりて店に入るまで10分程待ちます。
その店にはつゆだくとスパイシーの2種類の「カレーやきそば」があるのですが、つゆだくを頼みます。
運ばれてきたのは、ラーメン丼にカレーが掛かった野菜たっぷりの焼きそばです。
ライスはもとよりうどん、パスタにも合うカレーですが、焼きそばにも違和感がありません。 柔らかいカレーの味で、つゆまで飲み干せることができたのでした。


 食後は先ほど歩いてきた所まで戻り、続きを歩きます。
街の中には、方々に地蔵さんが祀られています。
その地蔵さんを横目で見ながら辿り着いたのは、「和貴宮神社」です。
旧宮津城下町の東地区の氏神です。
社の玉垣には北前船によって西日本一帯から参詣した豪商らの名が刻まれています。
また境内にあるのはかつては海中にあったとされる巨石で、「水越岩」を称され祀られています。

 もうひとつ面白いものを見つけました。
「和貴宮神社」の鳥居の前にある消防団ですが、どっしりしていて年季の入った建物です。
どことなく引かれるものがあり、思わずシャッターを押したのでした。

 さらに西に進むと「古稲荷神社」があります。
その近くにある30mほどの小高い山が大久保山です。
かつての大久保城があった場所で、桜山児童遊園になっています。
といっても、訪れた時には雑草が茂った荒れ放題の場所で、山頂に唯一「大久保稲荷社」があります。
伊根町菅野の太鼓山にあったものを細川忠興が勧請したものです。

 ここからは「桜山天満宮」「仏性寺」など、神社仏閣が続きます。
そんな中、万町通り沿いに「今林家住宅」があります。
糸問屋、ちりめん問屋であった町家で、白壁に格子戸といった商家の姿が今も残っています。
万町通りには、その他にも趣のある建物を見ることができます。

 そこから北に1筋入ったところにあるのが「茶六本館」です。
木造3階建ての立派な建物は、創業250年以上の歴史ある現役の旅館です。

 ここからは「日吉神社」を目指して歩きます。
途中に見える漆喰の壁の家は「黒田家住宅」です。
「綿宇」の屋号をもつ1831年創業の酒造業を生業としてきた家です。

 ここで少し寄り道をしたいところがあります。
「旧三上家住宅」は、宮津を代表する豪商の邸宅です。
酒造業を営み、北前船を使った廻船業でも財を成しました。
本陣も手掛けていたということから、その商売の手広さには驚きです。
4代当主の三上宇兵衛の次男 勘兵衛が分家して屋敷を構えたのが、この家の始まりです。
扉を潜り中に入ると、そこには土間が広がり右手脇には酒造業で使っていた酒樽や麹樽が置かれています。
上は吹き抜けになっており、太い梁や高い天井を見ることができます。
畳に上がるとその先にはいくつもの部屋がつながり、障子の上に構える欄間にも緻密な彫刻が施されています。
縁側から望む庭園も素晴らしく、贅沢がひとつに集められたような豪邸です。

 それでは先を急ぎましょう。
目的の「日吉神社」へは、京都丹波鉄道の線路の下を潜って行きます。
通路から見上げると、レールが見える参道です。
「日吉神社」には石段を上っていきます。
石段を途中まで上ったところに現れるのが椎の御神木です。
参道の真ん中にドンと構えています。
樹木の樹齢は800年とも1000年ともいわれているものです。
さらに石段を上がった先の右手には、土俵があります。
毎年10月に「赤ちゃん初土俵入」が行われるところで、江戸時代から続く例祭です
「日吉神社」は、近江の日吉大社(滋賀県大津市)を勧進したとされています。
「杉末神社」を摂社としています。
歴代の藩主からも手厚い加護を受けており、1688年には宮津藩主 阿部正邦により再建されています。
また境内からは宮津の街と宮津湾を見下ろすことができます。

 神社を出ると、この辺りにも昔ながらの街が残っています。
路地の両脇に日本家屋が並んでします。
家に帰ってきたというホッとする感覚を覚えます。
この空間だけは、時間がゆっくりと流れています。

 さて再び宮津桟橋の方に歩いて行きます。
そこにあるのが「宮津おどり」の碑です。

 その先に見える旅館「清輝楼」も、先ほど見てきた「茶六本館」に匹敵する壮大な造りをしています。
こちらも木造3階建の建物です。
柱の間に塗られた漆喰の白壁が綺麗です。
外には後付けで作られたダクトが走り、これが逆になつかしさを感じます。
多くの文人墨客が滞在した、創業300年の純和風旅館です。
今度来るときには宮津で1泊して、このような旅館で魚を食べながらゆっくりしたいものです。

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