にっぽんの旅 近畿 京都 舞鶴

[旅の日記]

日本海の要塞 舞鶴 

 京都の日本海側の町、舞鶴を訪れてみます。
秋の京都といえば数々の紅葉の名所がありますが、あえて人の少ない舞鶴を回ることにします。

 JR東舞鶴駅から、「舞鶴引揚記念館」へはバスが出ています。
ところがそのバスは、たった今出たばかり。
次のバスとなると1時間以上も先で、後の工程を回りきれない恐れがあります。
ここは思い切ってタクシーで向かうことにします。

 車で10分ぐらいのところに「舞鶴引揚記念館」はあります。
舞鶴は日本軍の軍事拠点として、発達してきました。
日露戦争の時には、ほとんどの船が舞鶴港から出港しました。
第2次世界大戦の終戦後は、満州や朝鮮半島、そしてシベリアに抑留されていた旧日本軍人の帰還港として、重要な位置づけとなります。
戦後すぐには10ヶ所あった引揚港ですが、次第に限られてき、最後にはここ舞鶴だけが唯一の引揚港として残りました。
13年間で66万人の引揚者が利用した格好になります。
「舞鶴引揚記念館」では、引き上げに関する資料や道具が展示されています。

 そして「舞鶴引揚記念館」を出て、10分ほど歩いたところにある「平引揚桟橋」に向います。
森林から切り出したばかりの巨大な材木を搭載したトレーラが、目につきます。
トレーラの行先は材木加工会社で、工場に持ち込まれた材木は機械を通ると適度な長さの角材となって出てきます。
隣にはべニア板を加工する工場もあります。
そんな中を進むと、「平引揚桟橋」があります。
引揚者が夢にまで見た祖国への第一歩を踏み出したのが、ここだったです。
橋は復元されきれいな桟橋が海に突き出していますが、訪れる人はまばらです。
隠れた穴場といったところです。

 さて、ここからは舞鶴の町に戻り、「赤れんが博物館」を訪れます。
「赤れんが博物館」は1903年に旧舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫として建設されたもので、本格的な鉄骨構造のれんが造りの建築物としては現存する最古のレベルのものです。
館中では世界のれんがの種類と歴史、それにれんがのもつ魅力などを判りやすく紹介しています。

 「赤れんが博物館」だけでなく「赤れんがパーク」一帯にも、当時のれんが造りの建物が残されています。
現在は、店や倉庫として利用されています。
そのうちの1棟は、「市政記念館」として整備されています。
同じ建物にはレストランも入っており、ここで食事を取ることにします。

 舞鶴で1番人気は、「海軍カレー」です。
海軍に残されたレシピを再現して作ったカレーです。
もうひとつ舞鶴で忘れてはならないのが、「肉じゃが」です。
1901年に舞鶴には舞鶴海軍鎮守府が開庁され、初代司令長官として東郷平八郎が着任します。
青年時代に英国に留学していた平八郎ですが、英国で食べたビーフシチューの味が忘れられず、部下に命じて艦上食として作らせたのが「肉じゃが」です。
栄養のバランスも良いことから、艦上食として広まりました。
いまでは家庭の味として誰もに親しまれている肉じゃがを、どんぶりにした「肉じゃが丼」を食べてみます。
じゃがいもの甘さが醤油味と混ざり、どんぶりの具として見事にマッチしています。

 さて舞鶴が海軍の町と判ったところで、自衛隊の艦隊を見に行きます。
最初は別の日に来たかったのですが、艦船を見ることができるこの日を選んだのです。
「北吸桟橋」では自衛隊の監視のもと、門を通って桟橋に向かいます。
桟橋の入り口には、記帳をするための列ができています。
5分もすれば列の先頭に辿り着き、記帳を済ませると首から吊るす名札を渡されます。
桟橋には、グレーの巨大な船体がそびえています。
護衛艦「みょうこう」、「あたご」、「しらね」、「あさぎり」が勢揃いし、凛々しい姿を披露しています。
高く伸びたマストとその周りの数多くのレーダ、窓が見当たらない艦橋など、会戦を意識した巨大兵器です。

 その先には、ミサイル艇「はやぶさ」「うみたか」が停泊しています。
護衛艦に較べると小回りの利く小さな船体ですが、砲台が装備されているなど物々しさを感じます。
ミサイル台にはミサイルが装填されていて、今にも発射できる状態です。
ところが空になっている個所もあり、ミサイルを装填していないのか使用してしまったのかなど、いらぬ考えが頭なのかを巡ります。
いずれにしても実戦さながらの姿に、緊迫感を感じたのです。

 その後、「北吸桟橋」から西へ5分ほど歩いたところにある「海軍記念館」に立ち寄ります。
海上自衛隊舞鶴総監部内にあり、入り口で記帳してから施設の中に入ります。
敷地内には自衛隊の他の建物もあり、ここにも道をそれないように監視の目が光っています。
自衛隊員の教育に資することを目的として、1964年に旧海軍機関学校大講堂の一部を利用して設置されました。
建物に入ると海上自衛隊の旗とともに、東郷平八郎の銅像が出迎えてくれます。
鎮守府の初代司令長官であり日清戦争・日露戦争の立役者である東郷平八郎、ならびに旧日本海軍の資料が展示されています。

 ここからは、バスで西舞鶴駅に出ます。
駅から少し歩いたところに、「田辺城」はあります。
1578年の織田勢の細川藤孝と明智光秀が丹後に攻め入り一色氏を滅ぼしたことにより、細川藤孝は丹後国の領主となります。
藤孝は「宮津城」を本城を築いたのに続き、東西交通の要であった田辺にも新城を築きます。
「関が原の合戦」では、徳川家康率いる東軍に加勢したことから石田三成方が大軍で攻め込み、「宮津城」を捨て「田辺城」で西軍を迎え撃った藤孝でしたが、50日にも及ぶ長期戦で敗れてしまいます。
「関が原の合戦」の前哨戦として戦いが繰り広げられた「田辺城」ですが、大手門といまは彰古館になっている二層櫓が復元されています。

 そして「田辺城」の大手門の先には、「明倫館」があります。
1873年に舞鶴藩の藩校として河村真六によって開かれました。
今は小学校になっていますが、その周りの塀と門は昔の姿で残っており、当時の面影が漂ってきます。

 ここ舞鶴の特産品と言えば、魚介類に代表される蒲鉾です。
一番柔らかい蒲鉾を買って帰ることにします。
西舞鶴駅のパスの待合室には、その片隅が「かまぼこ知ろう館」として、蒲鉾の製法の説明と焼きゴテや石うすが展示されています。

 近畿の日本海側の玄関として、防衛要塞として、さらには細川藤孝が築いた町など、色々な角度から舞鶴を見ることができた1日でした。

   


旅の写真館