[旅の日記]
醤油とそうめんの龍野 
姫路からJR姫新線に乗って4駅の本竜野駅に来ています。
ディーゼル機関車が走るの単線の列車です。
のぼりとくだりの車両が駅ですれ違いながら、20分をかけてやって来ました。
少しややこしいですが、ひらがなの「たつの市」にあるのが地名の「龍野」で、JRの駅名だけが「竜野駅」や「本竜野駅」なのです。
龍野は、童謡「赤とんぼ」のふるさとでもあります。
山田耕筰が作曲した「赤とんぼ」ですが、作詞はこの町出身の三木露風です。
夕暮れ時に赤とんぼを見て昔を懐かしく思い出す露風の気持ちが込められた唄です。
駅のホームそして駅前ロータリーには、「赤とんぼ」の像が飾られています。
ここからは龍野の町を歩いてみましょう。
南北に流れる揖保川の西側に、見どころがありそうです。
川に架かる「龍野旭橋」を渡ります。
ここは人専用の橋で、車の往来を気にする必要はありません。
橋を渡ったところにあるのが「水神社」です。
坂上田村麻呂が東征の際の806年創建の神社です。

町の中の通りを歩いてみます。
道の両側には、外壁に木の板が張られた木造建物が続きます。
「播磨の小京都」と呼ばれる龍野は龍野藩の城下町で、醤油の町としても栄えました。

そんな中に「うすくち龍野醤油資料館」があります。
ヒガシマル醤油の資料館ですが、この地域の複数の醤油蔵の品々が展示されています。
龍野には、播磨平野の良質な小麦、大豆、赤穂の塩、揖保川の水と、醤油の条件が揃っていました。
うすくち醤油では、それに加えて播磨の米があるのが特長です。
そして京、大坂の巨大消費地が、龍野の醤油つくりを後押ししました。
醤油作りが龍野で根付くまでを、ビデオで観ることができます。
館内には麹室、仕込蔵、圧搾場で使われ道具、はっぴなどが保管されています。
これだけの情報を入手できて、入館料はわずか10円。耳を疑ったのでした。
「うすくち龍野醤油資料館」の向かい側には、「如来寺」があります。
1533年に創建され、龍野藩主脇坂氏の菩提寺でした。
境内に残る本堂は、1666年に再建されたものです。
この辺りに、醤油蔵が集まっています。
「ゐ」の文字が描かれたレンガ造りの煙突があります。
脇坂藩の「ゐの蔵」を譲り受け醤油業を営んでいた飾磨津屋のものです。
その後カネヰ醤油となりましたが、いまでは惜しくも事業譲渡してしまいました。
「ゐの蔵」を眺めながら歩いて行くと、「醤油の里 大正ロマン館」があります。
龍野醤油同業組合(いまの龍野醤油協同組合)が1924年に建設した組合事務所です。
大正ロマンを感じさせるモダンな洋館で、龍野の醤油産業の発展の歴史を示す建物です。
敷地内には1915年の旧醸造工場もあり、重要な歴史遺構として保存されています。
ここから先ほどないところに、「龍野城」はあります。
1499年に赤松村秀が龍野の鶏籠山に山城を築いたことが、始まりです。
4代続いた赤松政治も、1577年には豊臣秀吉に戦わずして城を明け渡します。
徳川の時代には播磨を池田氏が統治し、本田忠正が姫路城に次男の政朝が瀧野に入りますが、兄忠刻の死に伴って姫路に移ります。
その後は小笠原、岡部、京極と、城主が目まぐるしく代わります。
藩政が安定するのは、その後の脇坂氏になってからです。
1672年に信州飯田より脇坂安治が龍野に入り、瀧野を支配します。
ここから10代200年に続き、脇坂藩政が続き瀧野は城下町として大きく発展しました。
「龍野城」の横には「龍野歴史文化資料館」があります。
ここには原始時代からの瀧野の歴史が紹介されています。
賤ケ岳の戦いで使用した十文字槍、そして火縄銃も飾られています。
訪れた時には端午の節句の前、ちょうど雛人形の飾り付けが行われていました。
城の門を出たところに「三木露風生家」があります。
「赤とんぼ」の作詞家 三木露風です。
露風は1889年にこの家で生まれました。
露風5歳の時に両親は離婚し、母は弟を連れて実家の鳥取に帰ってしまいました。
露風は祖父の家に引き取られますが、母と過ごした思い出の場所なのです。
その先には白壁で囲まれた一帯があります。
「霞城館」です。
ところが訪れた本日には工事のため閉館しており、中に入ることができません。
正門は閉まっているのですが、東門である龍野藩の家老屋敷の家老門は見ることができました。

ここで昼ごはんとします。
龍野といえば、揖保川から名付けられたそうめんが有名です。
手延素麺の「揖保乃糸」です。
穴子、椎茸、梅、蒲鉾、ゆば,三つ葉、錦糸卵が入ったにゅう麺です。
盛りだくさんの具にツルツルした麺、それにやさしい味の出汁が身体を温めてくれます。
さすがそうめんの里だけあります。
食事で力がついたので、ここから少し歩きます。
まずは「龍野神社」に向かいます。
写真では本殿までの石段の一部が写っていますが、この先長い石段が続きます。
9代藩主脇坂安宅が1862年に脇坂家の廟を建立し、初代藩主の脇坂安治を祭神としています。
その横には、相撲の神様と崇められる「野見宿禰神社」があります。
看板には「野見宿禰神社参道」とあり「参道」の文字が気になりましたが、気にせず進んでいきます。
途中に「力水」があり、相撲取りの像から水が注ぎ出ています。
石には栃錦の直筆の文字が彫られています。
ここから参道は登り道になります。
ところが行けども行けども、本殿が見えません。
ほぼ山を登り切ったところから先は、さらに急な石段になります。
何度かの休憩をしながら登っていきます。
「野見宿禰神社」は、石でできた扉で閉ざされています。
脇にぐるりと回る山道があり、山の一番高いところに小さな石の祠を覗くことができたのでした。
再び坂を下り、「龍野神社」の傍まで戻ります。
そこには龍野藩主脇坂氏の上屋敷跡があります。
屋敷からは小川を設けた回遊式の日本庭園を眺めることができます。
しかし庭園を飛び出しその先には、眼下に広がる龍野の城下町を手にすることができるのです。
上屋敷跡を御涼所とすれば、門を出たところには茶室があります。
心字池の上に建つ浮堂です。
これらを合わせて「聚遠亭」と呼ばれています。

実は山を下りたところにも、脇坂氏の屋敷があるのです。
今度はそちらに向かいます。
「旧脇坂屋敷」は、上屋敷跡が火事で焼失した際に過ごした場所で、「聚遠亭」の上屋敷に対してここは中屋敷と呼ばれています。
藩士3軒分から成る屋敷をつなげたものです。
傾斜地に建てられた屋敷ですから、それぞれに微妙な高低差があります。
渡り廊下は傾いていたり段差があったりで、お世辞にも使いやすいとはいえない所です。
現在部屋は市民にも開放されており、尺八の練習が行われていました。
それにしても突然家を明け渡すことになった藩士の気持ちを考えると、心中を指するものがあります。

その近くのには武家屋敷もあります。
今も残る「武家屋敷資料館」に行ってみます。
1837年に鉄砲師の芝辻平左衛門によって造られた木造2階建ての建物です。
玄関の脇扉から庭の様子を覗うことができ、そこから見える縁側の障子はガラスの部分に紋が入っています。
家の中に入ると、そこは床間になっています。
その床間から奥の間に入るところの襖の上を見て、びっくりします。
床間からは陰になる壁に、槍が隠されています。
さすが武士の家といったところです。

さて町の中も一通り見終えて、駅に向かって歩いて行きます。
来た時とは1本南の揖保川に掛かる「龍野橋」を渡ります。
川の東側には、大きなヒガシマル醤油の工場があります。
この地方の主役であることがわかります。
駅に戻ると、次の列車まで50分もあります。
観光案内所が土産物屋にもなっていますので、寄って時間を潰します。
「うすくち龍野醤油資料館」ではヒガシマル醤油の甘酒を買ったのですが、ここでは地元では買えない矢木醤油の牡蠣醤油をお土産にしたのでした。

冬の合間の暖かい日でした。
そしてなによりも見どころいっぱいの龍野だったのでした。
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