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[旅の日記]

神戸元町の旧外国人居住地 

 本日は、神戸元町近辺を散策します。
JRで元町駅に着いて、独特の景観をもつ交番からが本日のスタートです。
まず立ち寄ったのは中華街です。
横浜や長崎にある中華街と同様、街の一角が異世界でなった場所です。
以前行ったルミナリエでも報告しましたが、中華料理店と土産物屋がひしめく所です。
今日は5月の連休、そしてコロナで外出自粛が続き3年ぶりということもあって、中華街は人また人の混雑です。

 まずは腹に食べ物を入れます。
中華街で人気の豚まんを買いに行きます。
今回は西の西安門から入ります。
お目当ての豚まん屋は、街の中心にあるのです。

 人気の店で、案の定豚まんを求める人が長蛇の列を作っています。
ヘビのように幾重にも重なる曲がった列の最後尾に並びます。
1時間は並ぶ覚悟でやって来たのですが、店頭販売だけの店とだけあって20分ほどで列の先頭に辿り着きます。
豚まんの皮にあんを詰めそれを蒸しているのがガラス越しに見えます。
列の先頭になった時に、突然ガラスから離れるように言われます。
そう、せいろで蒸しあがった豚まんを敷いていたふきんを剥がしながらそっくりひっくり返すので、蒸気から離れろと言う指示だったのです。
湯気のですひっくり返った豚まんを、注文した量だけ竹の皮に包みます。
店の前は広場になっており、場所を見付けて小ぶりの豚まんにかぶりつくのでした。
味が付いていながらもはっきりと肉の味がする、美味しい豚まんでした。

 ところがこれに飽き足らず、中華街を見て回っていると北京ダックの文字が目に入ってきました。
本格的な北京ダックはン万円コースですが、クレープのような歩きながら食べる北京ダックなら財布の許す範囲内です。
思わず買ってしましました。
キュウリとセロリーにカリカリのアヒルの皮の合せで皮で包んだものに、甘辛いたれがかかっています。
気分は料理で食べる北京ダックそのものです。

 さて腹も満たして、ここからは本日の目的である街歩きです。
ここ港町である元町は、外国人居住者が多く住んだところです。
山の手に行けば過去にも紹介した異人館が有名ですが、海側にも多くの外国人が住んでいました。
1858年の日米修好通商条約の締結から、江戸幕府は急速に海外に門戸を開きます。
そして兵庫津に港を開き、御所に近いことから朝廷はしぶしぶであったと伝えられていますが外国人に神戸村を開放します。
1868年の安政五カ国条約に基づき、約258,000平方メートルの区域が外国人居住地として行政権や財政権などの治外法権が外国人を中心にした自治機構に与えられました。
ここに住むことが許されたのは、イギリス、フランス、ドイツ、オランダと清の5か国でした。
1872年には今のような碁盤の目状の区画が完成し、国際貿易港としての神戸が構築されていったのでした。

 まず訪れたのは大丸神戸店の裏にある38番館です。
ウィリアム・ヴォーリズが設計した建物で、1929年にナショナルシティバンク神戸支店として開業します。
丸にを帯びた角が町に合い、落ち着いたの景観を放っています。
よく見ると、目立たないように何気なくエルメスの文字が浮かんでいます。

 そこからは海に向かってメリケンロードを南に歩いて行きます。
通りの角にあるのは、神戸メリケンビルです。
曾禰達蔵と中條精一郎の設計で、1918年に旧日本郵船神戸支店として建設ました。
建設当初は銅葺きの屋根と円形ドームを有していましたが、1945年の神戸大空襲で惜しくも焼失します。
1994年の耐震工事が幸いして、1995年の阪神・淡路大震災でも大きな被害はなく、今の姿を保っています。

 この先にあるのがメリケン波止場です。
ここについては「神戸ウォータフロント」の回で詳しく紹介していますので、そちらをご覧ください。

 再び元町の旧外国人居住地を巡ります。
神戸メリケンビルから1筋東に向かったところに、道を挟んでレトロのビルが2棟並んでいます。
西側にあるのがショップ神戸海岸ビルです。
1918年に旧三井物産神戸支店として竣工されたもので、河合浩蔵の設計です。
シンプルな直線美が特徴です。
阪神・淡路大震災で全壊しますが、再建されたビルの外壁は昔の壁板を貼って再現したものです。

 そして東側が商船三井ビルディングです。
通りの角に沿って、外壁も緩やかに曲がり丸みを帯びています。
1階部分の外観はルスティカ仕上げの石積みで、最上部には半円形のペディメントを備えています。
建築家渡辺節が設計したルネッサンス様式のビルです。
大正期の大規模オフィスビルとして、唯一現存する貴重なものです。

 商船三井ビルディングからさらに東へ進みます。
2筋歩いたところにあるのは、チャータードビルです。
チャータード銀行神戸支店として1938年の建設で、ェイ・ヒル・モーガンによって設計されました。
正面はイオニア式列柱が2階の天井まで貫いています。
見学することはできませんでしたが、折れ天井の全面に大理石が貼られた広大な吹き抜け空間があるということです。

 ここから少し通りを北に入って行きます。
やがて左側に見える2階建てのカフェが、15番館です。
1880年竣工の旧アメリカ合衆国領事館です。
2階の南面はベランダで、柱列が並ぶコロニアルスタイルの美しい建物です。
ここも震災で被災しますが、元の建材を使って復元されたものです。

 そしてその道を挟んだ東側には、神戸市立博物館があります。
ただこちらは建物の裏側です。
正面玄関がある1筋東まで向かいます。
1935年に横浜正金銀行神戸支店として建てられました。
桜井小太郎最後の作品で、彼は旧三菱銀行本店や丸ビル旧館などを手がけた人物として名高い建築家です。
御影石が貼られた外装と、6本のドリス式円柱が特徴です。
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 そして通りにはどこか懐かしい電話ボックスがあります。
携帯電話の普及で、公衆電話自体が珍しくなってしまった昨今です。
街の外観に合わせたような電話ボックスです。

 ここからはさらに東に歩いて行きます。
すると壊れた陸橋の橋脚のようなものが放置されたようになっています。
近付いてみると、これが阪神・淡路大震災の時に記載した阪神高速道路の橋脚だったということです。
そういえば頭の上には高速道路が走っています。
そして東灘区での635mに渡っての道路倒壊が、目に浮かびます。
ここの橋脚も表面のコンクリートが剥がれ鉄骨が露わになっており、改めて地震の怖さを思い知ったのでした。

 お目当ての建物は、この先の信号を右折したところにあります。
そこにあったのは、神戸税関旧館です。
現在の建物は3代目ですが、阪神・淡路大震災で半壊した2代目を忠実に再現しています。
正面角にある花崗岩張りの時計塔、その両脇の煉瓦張りの外壁など、ほぼ完全な形で復旧されました。

 そして道向かいのベージュの建物が、デザイン・クリエイティブセンター神戸です。
1927年に旧神戸生糸検査所として建てられました。
神戸港より輸出される生糸の検査を行っていました。
写真に写っている旧館はチューダー・ゴシック様式の建物で、5年後に建てられた新館がネオ・ゴシック様式であることに対照的です。

 旧外国人居住地のレトロな建物も、これでひと通り見終えました。
これからは目の前のフラワーロードを北上して、三ノ宮駅を目指します。
こうべ花時計は、季節の花が咲いています。
中央にはマイナンバーカードのマイナちゃんが、花で描かれています。
そうです、季節毎に頻繁に植え替える花なので、最新の図案にも対応できるということです。
修学旅行生の姿が見られます。

 そしてその横の煉瓦造りの建物は、在留外国人の社交クラブとスポーツクラブです。
東遊園地であるこの付近に以前はありましたが、その特徴を活かし現在の管理事務所とレストハウスになっています。
外壁にはツタの枝が這い、独特の趣がある姿になっています。

 本当はさらに北上するところですが、ふと思い出したことがあります。
せっかく三宮まで来たのですから、神戸の洋菓子を食べて帰りたくなったのです。
ということで、ユーハイムの店を探したところ、今朝のスタート地点である元町駅近くに本店があります。
元町まで戻ることにします。

 歩いて行く途中に見つけたのが、ケーニヒスクローネです。
こちらのドイツ菓子として有名なところです。
ホテルも経営していたとは、初めて知りました。
ただ今日は頭の中が既にバウムクーヘンになっていますので、ここには立ち寄らずユーハイムに直行することにします。

 その先には三宮神社もあります。
三宮という名前ですが、電車の駅としては元町だったのです。
天照大御神を祀り 航海交通の安全と商工業の繁栄を祈っています。
面白いことに、境内には大砲が飾られています。
三宮神社前で突発した神戸事件で使われた時代のものです。
備前の藩兵が外国兵との交戦で、3門の大砲で応戦しました。
その名残がここにはあったのです。

 そしてその手前には大丸神戸店があります。
朝前を通ったところまで戻ってきました。
お目当ての店は、この先の元町商店街にあります。
アーケードに入ると、その店はすぐに見つかりました。
喫茶室は順番待ちでしたが、ほどなく招待され席に着くことができました。
ここで頼むのはバウムクーヘンだったはずですが、大好きなフランクフルタークランツがあります。
しかも本店だけのメニューという言葉につられて、こちらを注文してしまいました。
ここで知ったのですが、創業者であるカール・ユーハイムが初めて店を出したは、神戸ではなく青島だったのです。
その後捕虜として日本にやって来た時に、横浜に店を興します。
同時に日本への永住を決意したのもこの時です。
そして関東大震災で被災した時に神戸でやり直したことから、神戸の洋菓子という印象が強いのです。
神戸1号店を出したのは、1923年のことでした。
そういう歴史を知って食べると、さらに美味しく感じるのでした。

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