にっぽんの旅 近畿 兵庫 三木

[旅の日記]

三木合戦と湯の山街道 

 本日の訪問地は、兵庫県の三木です。
広い兵庫の太平洋側に位置しますが、海側というよりも内陸の土地といった印象を受けます。
それは新開地駅からの神戸電鉄が、山を上り下りしてやっと三木駅にたどり着くから、そう思うのかもしれません。

 新開地駅を出た神戸電鉄は、しばらくは有馬線を走ります。
鈴蘭台駅で、三田・有馬温泉方向に行く有馬線から、三木・粟生へ行く粟生線に分かれます。
鈴蘭台駅を過ぎると、本線から突き放されたように左に大きくカーブした単線に入ります。
しかし心配することなかれ、その区間を越えるとしばらくは複線に戻ります。
新開地駅から乗車して1時間ほどで、目的の三木駅に到着します。

 三木駅は自動改札が設置されているものの、駅員の人影すら見えない小さな駅です。
今回は町の観光マップが乏しい中で、駅に案内図が置かれていることを期待してきたのですが、期待は裏切られるものです。 携帯電話から入手できるWEBの情報を頼りに、町散策を開始したのでした。
駅前の通りを進むと、加古川に通じる美嚢(みのう)川と交差します。
いつかは行ってみたい黒滝を持つ川で、その美しさの半面、昔から水害に悩まされてきました。
しかしこの川のおかげで水運に富んだ三木は、発展を続けることができたのです。
そんな三木の町を、さらに歩いて行きます。

「旧小河家別邸」は、政治家 小河秀太郎が明治後期に別荘として造営したものです。
主屋の他に、番人小屋、物置、倉庫、女中部屋を敷地内に有する大豪邸です。
屋敷の周りは、木の外塀が広い敷地をぐるりと囲んでいます。
前庭・主庭・中庭・裏庭・側庭の5つから成る庭は、離れ座敷から眺めることができます。
池泉回遊式の主庭は、池の周りを歩いて回ることができます。

 ここからは、もうひとつの旧家である「旧玉置家住宅」に向かいます。
途中に通る道は、「交わし道」の文字があります。
三木の主要道である「湯の山街道」は、三木以西の大名が参勤交代で通ります。
そこで、大名行列と鉢合わせになることを避けるために設けられた道がこの「交わし道」で、抜け道の役割を果たしていたのです。

 やがて「旧玉置家住宅」が見えてきますが、先に大名が通る「湯の山街道」を見てみます。
「湯の山街道」の左右には、昔ながらの趣のある町屋が並んでいます。
通りに面した大きな窓には荒格子が飾られ、歩くにつれて波打って見えます。
2階の屋根裏部屋には換気口となる虫籠窓が並び、飾り模様は左官職人の腕の見せ所です。
意匠や形に彼らの工夫の跡を見ることができます。

 そして「湯の山街道」に面した「旧玉置家住宅」を訪れてみます。
道路側の母家と奥の土蔵は、1826年の造りです。
上州館林藩の財政難を立て直すために、切手会所(今の銀行)が設置されたのが1823年で、現在の小切手に当たる切手札(藩札)を取り扱っていました。
切手会所とは、切手札を発行し金銀と交換したり貸付業務をする場所のことです。
この建物が完成した1826年には、切手会所もここに移されます。
道路に面したところから順に、一般の人と対面する部屋、その奥がお得意さんとの部屋、さらに扉を潜ったところには上お得意さんだけを通す部屋が並んでいます。
そしてその後明治になってからは、渡り廊下と離れ座敷が増築されました。
渡り廊下は土地の傾斜に合わせて、微妙に傾いて作られていることが判ります。
また離れ座敷は、組み細工の欄間など贅を尽くした造りになっています。

 「湯の山街道」をさらに歩いて行きましょう。
そこには、包丁屋があります。
近くに「金物資料館」があるように、ここ三木は金物の産地でも有名な場所です。
特にのこぎりは全国シェアの7割に迫るもので、カンナやノミ、コテなどの工具が名産品です。

 この先は、商店街を抜けて右手に「上の丸稲荷神社」への石段を眺めながら、神戸電鉄の線路と交差します。
この場所に線路に沿った階段があります。
上っていくと、丘の上には瓦を乗せた「三木城」の白壁が続きます。
「三木城址」で、小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称されたところです。
別所則治が築いた城で、織田方の羽柴秀吉による「三木合戦」が有名です。
1577年に天下統一を目指す織田信長は、中国地方の毛利輝元を討つために羽柴秀吉を播磨に進行させます。
これに対し別所小三郎長治を中心とした播磨の武将は、織田方に反旗を翻します。
播磨への直接対決に備えて兵力が消耗することを避けたかった秀吉は、直接の攻撃は行わず「三木城」の周りを取り囲む兵糧攻めを行います。
はるかに大勢の織田軍に取り囲まれても持ちこたえた「三木城」ですが、20ヶ月もの長期戦の末に、ついに城主 長治は自刃してしまいます。 兵士や領民の命と引き換えに、一族が命を絶ったという暗い歴史のある場所です。
これが「三木合戦」と呼ばれるものです。
城内には「三木合戦」の合戦図が飾られ、当時使われていた井戸も残っています。
「上の丸稲荷神社」は、長治が京都の伏見より勧請して建てたもので、後に羽柴秀吉によって再建されました。
御剣大神という鍛冶屋の神様が祀れており、三木の金物産業の崇敬を集めてきました。
本殿を取り囲むように、多くの金物で造られたの鳥居が並んでいます。
またひときわ高い天守台には長治が詠んだ歌碑が建てられ、またここからは三木の町を一望することができます。

 時代は変わりますが、城内の西の丸には兵庫県立三木高校の前身である「旧三木実科高等女学校校舎」があります。
1942年の建物で、懐かしい木造の校舎が残されています。
現在は、市役所の分庁舎として使われています。
この近くには「みき歴史資料館」もあり、古代から近代までのこの地方の歩みが展示されています。

 ここから恵比寿駅までの間を「湯の山街道」を歩いて行きます。
木の板を貼った家には、面白い看板が立っています。
美嚢川の水運が盛んな三木でしたが、多くの高瀬舟が往来していました。
その高瀬舟の底板を利用して造った蔵であることの紹介がされています。
それが今も残っているのですから、驚きです。

 「湯の山街道」は、三木から湯の山(有馬温泉)へ通じる街道のことで、「三木合戦」の際に秀吉が幾度となく往来した道です。
合戦で負傷した者を、湯治のために有馬温泉へ運んだともいわれています。
いまなお、当時の雰囲気を色濃く残す町並みが残っています。
通りを歩き古い建物にカメラを向けていると、地域の人が色々と声を掛けてきます。
この辺りの説明や古い街並みの話などさまざまで、「ここは参勤交代で使われた通り」のことや、「自宅の近くにも古い家々が並んでいるので見に来てくれ」など、話が尽きません。

旅をしての嬉しい出会いです。
 また、通りには何軒かの造り酒屋も並んでおり、杉玉が目につきます。
そのなかのひとつで、「葵鶴」ののれんが掛かるところがあります。
稲見酒造で、ふつうひとつしかない杉玉が軒下にたくさん並んでいます。
酒造りの神様である奈良の三輪神社で、御神体となる三輪山の杉を使って作られた杉玉だそうです。
試飲もできる酒屋でした。

 さて、いよいよ今回の旅も最終地点に近くなってきました。
「大塚戎神社」は、西宮神社から勧請されて創建された神社です。
1747年の分社で、七神が祀られています。

今宮のえべっさんである「事代主命」と西宮のえべっさんである「蛭子命」の両方が祀られている珍しいところです。

 そしてこの先すぐのところにある神戸電鉄の駅が、今回の終着点です。
恵比寿駅の駅前には、えべっさんの像が建っています。
ここからまた1時間を電車に揺られて、新開地まで戻ったのでした。

   
     
旅の写真館