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[旅の日記]

生野銀山 

 本日は、生野の町を散策してみます。
姫路からは、JR播但線で寺前までエンジ色の電車進み、そこから先はこれまたエンジ色のディーゼル車両に乗り換えます。

 生野の駅前はひっそりしており、小さなロータリーにタクシーが1台停まっています。
そのロータリーの脇にあるのが、「旧日下旅館」です。
1910年からの旅館で、1921年には木造3階建ての建物になりました。
姫路から城崎まで見渡しても、3階建てが2軒しかなかった時ですから、当時としては驚きだったことでしょう。

 さてここから本日のお目当ての「生野銀山」に向かいます。
確かバスが出ているはずですが、駅前にはバス停らしきものは見当たりません。
少しブラブラしたあげく店に入って聞いてみると、駅の反対側だということです。
てっきりこちら側が銀山に近いので、バス停があるものとばかり思っていました。

 駅の西側は、整備された大きなロータリーがあり、既にバスが停まっています。
この期間だけ走る、1日券で乗り降り自由の「たじまわる」というバスです。
実はこの日、3回もこのバスに乗ったのですが、いずれも他の客に出会うことはなく貸切り状態でした。
バスに乗ると、まずは1日フリー券を購入します。
ガイド兼車掌さんから、1日券とともにクリアファイルに入った観光パンフレット、それに記念のボールペンが手渡されます。
これだけでも、得した気分になります。
バスが動きだすと、周りの景色に合わせて説明が行われ、さながら観光バスに乗った気分です。

 街中を抜け山間部を少し走ったところに「生野銀山」はあります。
菊の御紋が入った門を通り、中に入ります。
ここ「生野銀山」は、807年には銀が出ていたと伝えられています。
そして1542年に、但馬守護職の山名祐豊が銀石を掘り出したころが、開坑の起源といわれています。
その後、自然銀を多く含む日本最大の鉱脈が見つかると、1600年には徳川家康が但馬金銀山奉行を配置し、佐渡金山、石見銀山と並ぶ江戸幕府の天領として「生野銀山」を保護します。
明治に入り、1868年には日本初の官営鉱山となって、政府直轄の鉱山と位置付けられます。
同時に近代化を推し進めるために、明治政府はフランス人技師ジャン・フランソワ・コワニエを鉱山師兼鉱学教師として雇い、製鉱所を建設して生野を世界的な町に成長させていきます。
さらには生野鉱山と佐渡鉱山が宮内省御料局の所管となったあと、1896年に三菱合資会社に払い下げられて稼働してきましたが、1973年には閉山を迎えることになりました。
これから訪れる坑道の見学コースは、そのときに掘った深さ880m、総延長350kmの一部なのです。

 門の前には「一円電車」が展示されています。
これは当時、鉱石と人をわずか1円で運んでいた乗り物で、生野駅から銀山までの川沿いにも当時の線路を思い出させる石積みの跡が残っています。

 いよいよ坑道に入って行きましょう。
入場券を買い、「生野代官所」と書かれた門を入って行きます。
その先には「金香瀬坑道入口」のトンネルが控えています。
ここから歩いて、トンネルの中を見て行きましょう。
岩がむき出しのトンネルは、夏は涼しく冬暖かい、過ごしやすい場所です。
しかし落盤の恐れのあるところには、天井に丸太を並べた箇所や、時代が進むと鉄製のアーチを配した箇所が所々に存在します。
人一人が入るのが精いっぱいの狭い場所も、そこかしこにあります。
壁を見ると白い筋の入ったところがあります。
これが鉱脈だということで、言われてみると周りとの違いが判りますが、銀とは程遠い色合いです。
掘削の様子や掘り出した鉱石の運搬の様子が、等身大の人形を使って表されています。
坑道にはトロッコの線路が残ったままの場所もあり、当時の様子を生々しく見て取ることができます。

 坑道口脇にある鉱山資料館では、採掘や精製の工程が説明とともに展示されています。
それに加えて、実際の鉱石や銀貨の展示もあり、実際のものを目にすることができるのです。

 「生野銀山」を見終えて、再びバス「たじまわる」で炭鉱の町に戻ります。
ここから街散策が始まります。
最初に訪れたのは、町の東側にある「旧生野鉱山職員宿舎」です。
一戸建ての住宅が、軒を並べています。
そのうちの手前の1軒が「志村喬記念館」になっています。
黒澤映画の名脇役で有名な志村喬は、三菱生野鉱業所の冶金技師の父を持ち、この職員宿舎で生まれました。
生野尋常小学校の卒業後、高校は神戸、そして関西大学まで進みますが、父親の退職に伴い学資の援助が得られなくなり、夜間に転ずるとともに大阪市水道局の臨時職員として生計を立てていきます。
その頃、大学講師に劇作家の豊岡佐一郎やシェイクスピア研究家の坪内士行に交わることから、次第に演劇熱が芽生えはじめ、ついにはアマチュア劇団である七月座を結成することになります。
芝居に熱中するあまりに欠勤続きで市役所は首となり大学も中退して、本格的に役者の道を目指し始めます。
しかし食いつなぐために近代座に入り、舞台俳優として日本のみならず中国、上海、大連、釜山を巡業して回ります。
けれども単調な芝居には飽きたらず、巡業先で一座を離れて、この頃主流になり始めたトーキー映画に魅せられて映画俳優へと転向します。
千恵蔵プロの「赤西蠣太」でデビューし、マキノトーキー、日活京都、東宝と点々と移籍を繰り返します。
戦後は1943年の黒澤明の第1回監督作品「姿三四郎」を皮切りに、21作品に出演します。
医者役の「醉いどれ天使」、刑事役の「野良犬」など数々の作品がありますが、やはり「生きる」の1シーンが忘れられません。
市役所の職員役である志村が、癌に侵されていると知りこれまでの無気力な自分とは打って変って行動を起こそうとします。
ところが、見て見ないふりをする役場の体制に逆らえず、自分の生き方を公園のブランコに乗って悩む様が、いまでも脳裏から離れません。
住居の北側の広場には、志村喬の生まれた場所を示す石碑が立っています。

 映画に酔いしれたあとは、「桑田家住宅」「佐藤家住宅別邸」を眺めながら歩き回り、西側の「銀山まち口番所」に寄ります。
ここは観光案内所でもあり、レストランにもなっています。
ここで「生野ハヤシライス」を注文します。
鉱山社宅で食べていた当時の味を再現させようと、町興しの一環として取り組んでいるものです。
バターをたっぷり含んだトマトベースのソースに肉とタマネギが絡んで、濃厚な味がご飯に合います。
大きな皿に盛られていたのですが、ペロッと食べてなくなってしまいました。

 食後も散策は続きます。
目の前の「一区公民館」は、昔の生野警察署跡です。
異人館を真似て造ったとされる建物は、この地域に似合わない洋風の雰囲気が漂っています。
すぐそばには「松井家住宅」もあります。
ここからは南に向かい「旧松一醤油店」「旧海崎医院」を経て、「生野書院」に向かいます。
ここは郷土史料館になっていて、古文書から生野銀山の歴史を紐解くことができます。
立派な門は、生野銀山鉱山長官邸の門を移築したものです。
無料で開放されていることも、嬉しかったです。

 その近くの小学校の前には、大きな「生野義拳碑」が掲げられています。
これは幕府が生野の実権を握っていたことに対し、1863年に起こった農民の生野代官所の占拠事件です。
幕府によって鎮圧されてしまうのですが、その多くが不条理にも処刑され、後世のために碑となって残されました。
が、これは明治維新のひとつのきっかけになったことも確かです。

 そして再び町の中央で、旧吉川邸「井筒屋」に向かいます。
江戸時代の生野は、旅人の宿泊が禁止されていました。
公人の宿として6軒の宿坊がありましたが、そのひとつが「井筒屋」だったのです。
「井筒屋」向かい側には、「銀山町ミュージアム」として役人の浅田貞次郎の居宅が蘇っています。

 銀山で栄えた昔が嘘のような、静かで人情味のある生野の町でした。

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