にっぽんの旅 関東 山梨 甲府

[旅の日記]

甲府と信玄 

 静岡の富士から3時間近くかかって身延線で北上したところに、甲府があります。
山梨県の県庁所在地 甲府を、今回は旅します。

 さて折角来たのだから、先ずは甲府がどんな街なのかの散策です。
駅前に鎮座するのは、「信玄像」です。
高さ3.1mの「信玄像」は1969年の武田信玄の命日にちなんで作られ、現在ではこの駅前広場に飾られています。
信玄がいかにして甲斐の国を拓いていき、またこの街の人が信玄をいかに尊敬しているのかが判ります。

 それではその信玄ゆかりの場所を、訪れることにします。
甲府駅の北側、バスで5分ほど行ったところに、「武田神社」があります。
神社自体は1919年に建てられたものですが、この場所は元々信玄の「つつじヶ崎」の館跡なのです。
63年に渡って国政を司った場所でもあるのです。
朱塗りの橋を渡ると、石段の両脇には「風林火山」ののぼりが立ち並んでいます。
正面には拝殿があり、信玄にちなんで「勝運」の御利益があるということで、参拝客が後を絶ちません。
拝殿に向かって右手には宝物殿、左手には甲陽武踊殿があります。
武芸を嗜む者は同時に舞をも嗜むということで、能楽を始め神楽、演武が演じられています。

 再び甲府の駅まで戻り、駅前を散策します。
駅北側の広場に、綺麗な建物が見えます。
以前この地を訪れたときにはなかったような気がしたので聞いてみると、武田神社境内にあったものを移築復元したものだそうです。
この疑洋風の建物は「藤村記念館」と呼ばれ、睦沢村(今の甲斐市亀沢)で睦沢学校として1875年に建てられたものです。
1957年まで学校として使われた後は睦沢公民科となり、やがて老朽化による取り壊しが計画されます。
ところが旧睦沢学校校舎保存委員会の手で武田神社境内に移設され、その時から現在の名称「藤村記念館」として保存されることになりました。
そして、駅前に移築されたのは、2008年のことです。

 「藤村記念館」の藤村とは当時の山梨県令の藤村紫朗の名前から命名されたもので、彼は近代化の一環として疑洋風建築を推奨しました。
左右対称の白壁2階建て造りで、中央には太鼓桜と呼ばれる塔屋を備えています。
前側全面に張り巡らせたベランダには曲線が美しい手すりを配し、その軒天井は菱組の透かし打天井になっています。
内部には藤村紫朗に関する資料が展示され、また2階は学校当時の教室が再現されています。

 その隣には、「山手渡櫓門」があります。
甲府城には南側の追手(大手)御門、北側の山手御門、西側の柳御門の3つの入口がありました。
山手御門がここに再現され、城門としての山手門と武器の倉庫としての「山手渡櫓門」から成ります。
明治時代になると門は堀もろとも埋められてしまいましたが、発掘された石垣を使った再現工事の結果、現在の姿を復元することができたのです。

 甲府駅の西側には「甲州夢小路」と呼ばれる商業施設があります。
これも新しく建てられたもので、明治の甲府の様子を再現したところです。
さらに西に歩いていくと、そこには「サドヤ・ワイナリー」があります。
ブドウが有名な甲府で、約700坪にも及ぶ醸造場と貯蔵庫がここにあります。
地下ワインセラーは見学することもできます。
レストランも併設されており、美味しいワインを飲みながらの食事もできるのですが、今回は他に食べたいものがあります。

 それではその食べたいものを探して、駅の南側に渡ります。
甲府で有名な食べ物としては「ほうとう」が有名です。
うどんに似た麺と野菜たっぷりの具も美味しいのですが、今回求めているのは「甲府鳥もつ煮」です。
強火で鳥のレバーにてりやきのたれを絡ませた甲府の名物です。
これまで捨てていた鳥のもつを何とか有効に使えないかと、1950年ごろにそば屋「奥藤」の塩見勇蔵が作り出したのがこの料理です。
そば屋で鳥もつとは首をかしげてしまいましたが、こういった理由だったのですね。
その後の町おこしとして甲府のB級グルメに取り上げられたことから、一気に有名になりました。
柔らかくサクサクした食感のハツやレバーにキンカンを加えたものに甘辛いたれがかかります。
これがご飯に合い、食欲をそそります。
そば屋ですからこれに加えてさるそばが付き、満腹になったのでした。

 腹も満たしたことで、再び甲府の町を歩きます。
駅前からほど遠くない場所に、山梨県庁の庁舎があります。
高層の近代的な建物ですが、敷地内には同じ色使いをした年季のはいった建物もあります。
こちらは山梨県庁別館で、「山梨近代人物館」になっています。
正面から見ると中央と両端が少し飛び出ていますが、上から見ると山梨の「山」の字なっているようです。
建物中は解放されていますので、入ってみましょう。
玄関から入って最初に目にするのは、2階に続く大理石の階段です。
床や壁に大理石を敷き詰めてあり、豪華な造りになっています。
部屋の中には、山梨が生んだ著名人20名が紹介されています。
また旧知事室も公開されています。
こちらは窓にカーテン、床には絨毯が敷き詰められ、壁と天井は漆喰で固められた気品高い部屋です。
当時の贅を尽くした貴重な建物です。

 それでは、そこから歩いて5分ほどの「舞鶴城公園」に向かいます。
6.2haの公園は山梨城址で、別の名を「舞鶴城」と呼びます。 周りを堀と石垣で囲まれた城です。
遊亀橋を渡り、南側から入って行きましょう。
公園中央の丘の上には、天守があったのかどうかは不明ですが石垣を積み高台になった天守台が残っています。

 甲府の町は、平安時代後期には甲斐源氏の一族である甲斐一条氏が治めていました。
戦国時代になると武田信虎により甲府が開創され、「躑躅ヶ崎館」を中心とする武田城下町が整備されます。
武田信虎、晴信(信玄)の代になると、戦国大名としての地位誇示のために信濃・駿河・西上野へと領地拡大を図ります。
そして武田勝頼の時に甲府盆地の西部に当たる穴山郷に「新府城」が築城されたものの、1582年の織田、徳川両連合軍による侵攻によって、武田氏は滅亡に追い込まれたのでした。
その後は甲斐、駿河を徳川家康が領し、この地を支配することになるのです。

 甲府の歴史に触れた後は、「山梨金融資料館」に寄ります。
ここは山梨中央銀行の中にあり、古代から現在に至るまでの貨幣が展示されています。
戦国時代には諸大名によって各種の金銀貨が秤量貨幣として造られましたが、金の鉱脈に恵まれてこの地では甲州金においては7段階の量目体系に基づいた計数貨幣が造られました。
武田氏の滅亡後にこの地を支配した徳川家康は、甲斐の優れた甲州金の制度を江戸幣制として取入れたのです。
そんな歴史が、この「山梨金融資料館」では知ることができたのでした。

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